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「悪は存在しない」面白かったのかすら、まだよく分からない

私は足蹴く映画館に通う人間ではない。
映画を映画館で見るのは多くて年に5本程度だ。
そもそも頻繁に映画を見る人間ではない。
大抵の映画をサブスクで見るのに、今はネトフリもアマプラも入ってない

でも映画は好きだ。
読書と同じかそれ以上に感情が動き、見終わってから湯水のように湧き出る「ここが面白かった」「ここが個人的には刺さらなかった」という自分の感想に向き合う時間が好きだ。

今日、「悪は存在しない」を渋谷で観た。
映画が終わってしばらく席に座っていたが、すれ違う人のほとんどが訝し気に首を捻ったり、難しい顔をして俯いていたのが印象的だ。
私もその一人であった。

映画を見終わって、感想が湧き出てこないことは初めてだ。
面白かったのか・面白くなかったのかすら、いまだによく分かっていない。
傑作なのか、もしかしたらとんでもない駄作だったのか。
それも、自分の中に言葉の形ではまだ浮かび上がっていない。

なので以下では、「自分が観た映画の中身」と「よく分からなかったこと」、「分からないなりに折り合いをつけたこと」を書き残しておこうと思う。

映画のネタバレを存分に含む上に、観賞欲を刺激するような要素は一切ない、ただの情報の羅列になると思う。
なので、もう観た人・全く観る気がない人だけ、読んでくれたら嬉しい。
なにより、あなたなりにこの作品に対して付けた折り合いがあるのならば、それをぜひ知りたい。
このnoteは読まなくてもいいから、この映画に対する自分の言葉だけでも教えてくれたら嬉しい。




映画の中身

起承転結の枠組みに綺麗に収まる構造だったと思う。
ただ、その枠組みから見ただけでは捉えきれなかった。
なので、大きく話の流れが転換した点で、この映画を区切る形で思い起こす。

序盤:非常に長尺かつ単調に、山奥の生活が描かれる
物語の目的や主軸が一切見えない

・花(娘)が雪で舗装された森を歩いているシーン
・巧(便利屋・父)が薪割りや水汲みをし、自給自足のような生活が伺える
・夕飯では二人に加え、水汲みを共にした男とその妻、村長と金髪の若者が交じり団欒。芸能事務所による町開発の説明会あるとの説明

中盤:説明会を通じて山奥の住民vs開発の構図が生まれる
巧(主人公)は中立を表明し、大切なことはバランスだと言う

・花は、村長が夕食時に巧から喜んで受け取っていた羽根探しを始める
・グランピング開発の説明会。穴だらけの開発計画に住民の反応は良くない
・高橋と黛(開発計画担当の男・女)は一旦計画を持ち帰るも、開発を命じた社長とコンサルは強硬姿勢を取る。計画はコロナ助成金目当て
・高橋と黛の二人は、巧の協力を取り付けるため高速を使って山奥へ戻る
・山奥のうどん屋で協力を直談判。建設予定地が鹿の通り道だと判明。鹿は手負いでない限り人間を恐れると説明

終盤:行方不明となった花(娘)の捜索が行われる
各登場人物の感情が見えないまま、物語が結末を迎える

・花が行方不明になる。高橋・黛と共に花を探す巧は、道中で血に濡れた枝を見つける
・黛が手を怪我し、巧の自宅で応急処置。町内放送で花の捜索を呼びかけ、山奥の人々全体で捜索を開始
・巧と高橋が捜索の中で花を発見。手負いの鹿と対峙している
・巧が高橋を羽交い絞めにし、窒息死に追いやろうとする
・花は倒れており、巧が駆け寄ると鼻血を出していて息もない様子
・巧は花を抱き上げその場から歩きだす。しばらくしてから、高橋が起き上がり、また倒れる
・巧が花を抱えながら歩く音と、その息遣いのみが聞こえる
end


よく分からなかった点

・最初の「飽きるほど長い森のカット」は何を意味するのか?

※ 森の奇怪さ、怪しさ、神秘さを感じる。が、それにしても長い
それ以上の意味があるのか?

・山道を運転する車の移動視点が、全て後ろ向きなのはなぜなのか?

※登場人物の視点でないことの強調だろうか?だとしたら「車の後ろ」は何を意味するのか?

・巧が見つけた、「木に付着した血」は誰のものなのか?

※森の中の進行順は、巧→高橋→黛。「黛の血を巧が見つけた」はないはず。また花にも外傷はなさそう。鹿なのだろうか?

・巧と高橋が花を発見した(花と鹿が対峙してた)際、花は生きていたのか?

※急に幻のようなシーンを挟むだろうか?しかし、そうでないならないで、辻褄があってないように思う

・なぜ巧は、高橋を絞め殺したのか?

※恨み・衝動・激情のような感情は一切見受けられない。ただ「そうするのが正しいからそうしただけ」のように見える。儀式的な側面だろうか?しかし巧にそういった側面は一度も見えなかった

・花の亡骸にあった鼻血はなんなのか?死因は何なのか?

※死に瀕した鹿に殺されたとして、鼻血で済むのだろうか?しかし殺されたにしては、それはそれで外傷がない。そもそも動機もない。

・キャッチコピー「君の話になる」とはどういう意図なのか?


自分なりの考え

・この映画が「分からなかった」となった理由について

映画の中身を書き出している内に、「登場人物の感情が見えないから」だと感じた。
言い換えると、作中に善悪を測る定規が存在しなかったように感じる。
絶対的な「正しさ」や物語における各々の行動を評価する「基準」が見えない。

印象的なセリフの一つとして、芸能事務所社長の「善は急げ」があった。
これを聞いた時、「はは~ん、タイトルはこれね。誰かにとっての悪は、誰かにとっての善。本質的な悪は存在しないってアレね?」と思った。
しかし、この作中ではそういった安易な掛け方がメインではないと感じる。

なぜなら、メイン登場人物である巧と花の感情が見えてないからだ。
感情が見えないと、その人間にとっての善悪・正誤が分からない。
正しさが定義されていない世界では、悪も存在しない。
もしかして、そういうことだろうか?


・巧の行動について

まず高橋が高橋でなかった場合を考える。
もし一緒にいたのが黛だったら、巧は同じ行動に出ていたのだろうか?
答えはYesだと考える。

あの行動を引き起こしたトリガーは、花の発見だ。
「隣にいたのが高橋だったから」というのは、要因としてあるかもしれないが、それがメインの理由にはならないだろう。

いや、実際のトリガーは高橋だったのかもしれない。
思い返せば、花を見つけた瞬間に巧が行動を起こしたのではない。
具体的な順序としては、
花の発見→ 鹿の弾痕がクローズアップ→ 巧が高橋を制止→ 高橋がそれを無視→ 巧が高橋を羽交い絞め→ そのまま殺害
という順序だ。

つまり、高橋が巧の最初の制止に完璧に従っていた場合、あの行動に繋がらなかったという想像ができる。
ということは、巧は「高橋だから」殺したのか。
だとすれば、その理由は何なのか?

まず私怨・嫌悪のようなことが直結したとは考えづらい。
気に食わないという感情は持っていたかもしれない。
制止を従わないことで鬱憤が爆発したのかもしれない。
直前で「考えづらい」と書いたが、すこしあり得る気がしてきた。

感情を見せないバランスを大事にする男が、衝動的に気に食わない相手の首を掴み締め続けたことを、衝動であるがゆえに「悪ではない」というのがメッセージなのだろうか。
だとすると、すこし残念だ。
「君の話になる」というキャッチコピーも、激情には気を付けようというチャチなものになってしまう。

かといって、超自然的な(儀式的な)意味合いで淡々と手をかけたとも考えにくい。
そもそも、巧は吸ったタバコをそのまま道端に捨てていたような気がする(見間違いかもしれない)。
そんな男が、鹿に対する儀式的観点から人を手掛けるだろうか?

長々と書いたが、この点については全く自己解決していない。
もし考えがあれば是非聞かせてほしい。


物語と感情・思考の整理を長々と続けてしまったが、今日はそろそろ限界だ。
後日、修正も兼ねて自分の考えと記憶を改めて整理するかもしれない。
永劫この記事を放置するかもしれない。

分からないことだらけではあるが、考えたいと思わせる魅力がある映画であることは間違いなかった。
もう数日、引き続き考えたいと思う。



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