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Food|料理とSEXが似ていると思う理由

先日、食とアートについての私見を書かせてもらいました。「料理はアートなのか」という問いから、お皿の上の表現だけでなく、そこに関わる全体の表現になっていくということをまとめています。

そのなかで、「料理はアートなのか」という問いには一部を除きNO、「絵画のようなアート」にはYESということを書いているのですが、なぜ「料理はアートなのか」がNOについては書いていませんので、またも私見を書いてみようかと思います。

ここでわざわざ「一部」と言っているのは、「料理はアートである」いえる場合もあるという意味で、たとえば1990年代末にスペインで旋風を巻き起こした「エル・ブジ」のフェラン・アドリアの料理は、それまでの料理の本質を残したまま構造を作り変えるという点で、まぎれもないアートだと思います。

ここでいう本質とは、食べる人の感情にうったえかける心地よさ「快の情動」で、構造というのはフランス料理によって体系化された料理の構造のこと。簡単に言えば、人間は「精神的な満足」を求めて食事をする。「おいしい」という認識は、あくまで「精神的な満足」を得るためのものだといえます。

この食事による「おいしさ」という認識を「食感」や「驚き」「不安」というような認識と同等に置くことで、総合的に精神的な満足を得ようとする試みだったのではないかと僕は考えています。モダンアートが、それまでの「美しさ」だけでなく「醜悪」なものをも許容し、アートに組み込んだような、過去の価値観を打ち壊す試みをフェラン・アドリアは実現させたのです。

こういった「一部」のアート的アプローチはありますが、多くの場合は、表現の革新を求めることはなく、ひたすら「おいしさ」を求めている状況は、なかなか常に破壊と創造を繰り返すアートとは比較するのも失礼なほど、水をあけられていると言わざるをえません。

料理の味は「記録」できない

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料理がアートのように「おいしさ」以外の価値を引き揚げられない理由に、「食べる」という行為でしか、鑑賞ができないことも大きな要因のように思います(もし「食べない料理」があれば、それは造形芸術として捉えることができるので、十分にアートになっていくとは思いますが)。やっぱり食べなければ、料理という表現は完成しないことは、観たり聞いたり読んだりすることで認識するものとの大きな差のように思います。

僕は、アートなり芸術の起源は「記録」にあると思っています。文芸にしろ絵画にしろ、音楽にしろ。人間の身のまわりに起こっているものを、文字に残し、絵に残し、楽譜に起こすことで後世に伝えてきました。そういう意味では、レシピも記録だといえます。

その後、目からの情報は写真などで記録できるようになり、耳からの情報はレコーダーで記録できるようになっていったことで、経済的に拡大をすることができたともいえます。

その点、料理は、レシピで書き残すことはできても、そのもの自体の味を完全に残すことはできません。

映像や音、つまり目や耳で認知する創作物は、メディアに記録することができます。なぜそれができるのか。映像や音は科学的に見れば波形だからです。

その一方で、味覚は、舌にある味蕾細胞で五味を感じ、食感や温度は、口内で感じます。香りも、鼻の中に約1000万個あるというセンサー(嗅細胞)で感じるもので、波形による認知とはことなります。触覚、痛覚、温度覚などは、主に皮膚に存在する受容細胞によって感知されるといいます。

味覚や嗅覚、触覚を使って感じる料理は、記録ができません。その瞬間性が、もしかしたら「料理をアート」に昇華できずにいる要因のようにも感じます。

生命活動に必要な食と、なくても生命を維持できるアート

食べる」とは異物を体内に取り入れる行為であり、本来は身体的なものです。食べたものが自分の体の一部になり、生命活動のエネルギーになっていくわけです。食事は生きるために必要なものであることも、芸術と大きく異なる点です。

芸術は生命活動には不要ですから。

生命活動に不要なものであるからこそ、思考を持つヒトにしか満たされることのない快の情動があって、革新が生まれるのだと思います。動物に芸術・アートを見せてもなんの意味もありませんからね。

波形ではなく物質的な接触による認知や、本能的な生命活動に由来する行為、それらによって満たされる欲求。こう考えると、食事に近い行為は、SEXなのではなかと僕は感じています。

SEXによる認知は保存できないものですし(映像として残すことはできても、その映像から接触の認知は得られない)、生殖という本能的な生命活動にも由来します。他者を受け入れる行為でもあり、食事とSEXは構造的によく似ているようです。

ピンク色にしっとりと火が入った肉を「エロい」なんていう人もいますが、それはまさに接触した時の感覚が似ているからではないでしょうか。

僕は料理では「皿を通じて行う、作り手とのコミュニケーション」を大事にしているのです。それってまさにSEXの本質だったりしませんか?

料理はアートである」よりも「料理はSEXである」という方が、確かに僕的にはしっくりきます。

そう考えると、料理をアートや芸術にしたがる理由も見えてくるような気がします。保存することから生まれたものが芸術であり、保存技術の向上によって経済活動を大きくしてきたともいえますよね。つまり保存するとお金になるわけです。実際、モダンアートには、作品に何十億円という額ついています。

その一方で保存できない料理は、お金にしにくい。1つの料理の味に何十億円に値はつきませんから、規模が違います。また、SEXも同じです。性風俗はありますが、1度の行為に何十億もの根がつくことはありません。

そうすると料理を複製可能なアートの文脈に置く、つまり味ではなく、視覚、聴覚での認知性を上げることができれば、より大きな経済活動をすることができる。

SEX(性)もアートにすることで、錬金していますしね(西洋美術では、長くヌードに価値があった)。

保存できない認知であるからこそ料理とSEXは似ている。だからこそアートの文脈に載せて保存したがるのかもしれません。

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明日は、久しぶりに「Human」。続ける力を教えてくれた青い日記帳を主宰するTakさんについて。

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