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Memories|オーヴェール=シュル=オワーズ、ゴッホが見た夏の麦畑

フランス・パリ郊外の村オーヴェール=シュル=オワーズに向かったのは、2016年7月23日のこと。パリのサン=ラザール駅からSNCFのJ線に乗って1時間くらい乗ってポントワーズ駅でH線に乗り換えて、オーヴェール=シュル=オワーズ駅に向かうのですが、この日は不運にも運行停止で、ここでバスに乗り換えて向かうとことに。今思うと、よく運行停止とか、バスに乗り換えるとか、フランス語まったくわからないのに対応してたよなと思う。

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そういえばここだけの話なんでうsが、なぜか持っていた切符では自動改札が通れなくてあたふたしてたら、地元の人らしき若者に「なにやってんだ、上から乗り越えちゃえよ? カモン、来いよ!」(もちろんフランス語で、こんな感じに言ってそう)と、自動改札を乗り越えていったのはいい思い出です。

バスに揺られて30分ほどでオーヴェール=シュル=オワーズ駅に辿り着きました。

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(オーヴェール=シュル=オワーズの駅。もちろん列車は到着しません)

ゴッホが最後に制作に励んだ小さな町

オーヴェール=シュル=オワーズは、19世紀フランスの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの最後の制作地であり、ピストル自殺を遂げた終焉の地です。かくゆう僕も、ゴッホの関連本の取材のためにやってきました。

僕にとってゴッホは、狂人でも、炎の画家でもありません。

モダンアートの先駆的画家であって、絵画がとらわれていた「目の前の世界を正確に描く」という魔力からとにかく解き放たれたいと願った画家だったと思っています。そのためにも、ゴッホは決して狂ったように自殺を選んだのではないことを、最後の地に来ることで見つけたいと思っていました。

たくさんのゴッホゆかりの地が村にありますが、そこはどこも歩いて回れる程度。本当に小さな町です。

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この像、ゴッホだというのですが、なかなか強引というか、正直観ても最初は誰だかわからなかったです(笑)。

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ゴッホが制作の拠点にしたのが、このラヴーの館の屋根裏部屋でした。1泊3.5フラン(およそ3500円)だったそうです。1回は、レストランミシュランガイドにも掲載されている店で味が良いと評判だそうだ(食べてないので、真偽は不明)。

屋根裏部屋は見学できますが、撮影は禁止。どれくらいだろう、3㎡くらいの小さな部屋で、窓もなくとても暗い場所でした。この部屋で制作もしていたのでしょうか。そこまではわかりませんでしたが、かなり寂しい部屋のように目に映りました。

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オーヴェール=シュル=オワーズの村役場。ラヴーの館の向かいにポツンと建っています。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの階段
1890年 セント・ルイス美術館

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フィンセント・ファン・ゴッホ《オワーズ川の岸辺、オーヴェールにて
1890年 デトロイト美術館

オーヴェール=シュル=オワーズの北側の丘を登っていくと、ゴッホが描いたこともでもしられすオーヴェールの教会が見えてきます。

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オーヴェール=シュル=オワーズの街が見渡せる小高い丘の上に、小さな教会があります。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの教会
1890年 オルセー美術館

この日は、偶然にこの教会で結婚式を挙げている人たちがいました。僕にとってはゴッホ終焉の地ですが、彼らにとっては故郷であり、これから暮らす街だったりするんだろうな、というオーヴェール=シュル=オワーズの今をすごく感じた場面でした。

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この教会からさらに丘の奥へと登っていくと、一面の麦畑に抜け出ます。

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ゴッホは、オーヴェール=シュル=オワーズにやっていくる以前から「麦」を描いてきました。とくに麦を刈る人を何度も描いているのですが、そこにはミレーの落穂拾いに描かれるような、名もなき人々の生活であり、勤労であり、社会や生活を支えるものでもあったと思います。

日本でいえば「稲」に似ているかもしれません。一面の田んぼや、稲を刈る人を見ることで、暮らしの本質を感じるような。そういった感覚が、ゴッホのなかにあったのではないでしょうか。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《烏の群れ飛ぶ麦畑
1890年 ファン・ゴッホ美術館

1890年5月16日、サン=レミの療養院を退院したゴッホは、弟のテオが暮らすパリへ向かいます。この時、生まれたばかりのテオの子ども、ゴッホにとっての甥にあたるフィンセントに対面したといいます。自分と同じ「フィンセント」という名の甥を見たゴッホは何を感じたのでしょうか。

5月20日、オーヴェール=シュル=オワーズに到着、ラヴ―の館に宿泊し、同日テオから紹介したポール・ガシェ医師に面会しています。

静かなオワーズ川沿いの村で制作に励むゴッホ。意欲的な制作を続けますが、7月27日、この麦畑で自らの腹部めがけてピストルの引き金を引き、その2日後に息を生きとります。

真夏の麦畑。僕が見ている青い空と麦畑の景色と同じ景色をゴッホはどのように見ていたのか。風が吹くたびにサワサワと麦の穂が擦れあう音を聞きながら、ゴッホの気持ちを想像してみたのですが、まったくわかりませんでした。そんなの当たりまえですよね。

自殺した麦畑にいっても、ゴッホの気持ちはわからなかった。それは僕にとって、大きな大きな事実でした。ゴッホにはゴッホなりの、何かの選択をしてピストルの引き金を引いた。そのことを知れたことは、とても貴重な体験でした。

この麦畑に隣接するように小さな墓地があります。

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この墓地に、ゴッホとゴッホの弟テオの墓があります。

ゴッホは1890年7月29日に息を引き取ったあと、弟のテオもその年の10月に健康状態が悪化し、オランダ・ユトレヒトの病院に入院してしまいます。その後、状態好転せず、翌91年1月25日に、兄の後を追うように亡くなってしまいます。

テオの亡骸はユトレヒトに埋葬されますが、1914年4月に遺骨はオーヴェール=シュル=オワーズに移され、現在のように兄ゴッホの隣に埋葬しなおされました。

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オーヴェール・シュル・オワーズでゴッホは、何を求めていたのか。そんなことを知りたくて取材にきた僕でしたが、けっきょくそんなことなんてわからなかったし、そもそも答えに意味があるのか、と思いながら、オーヴェールの駅からポントワーズ駅行きのバスに乗りこんだ。

それから4年半が経ったのか。

今、思い返して思うことは、僕自身ゴッホの死の真相にはあまり興味がないみたいで、それよりも、彼がどんなことに意識的にチャレンジしていたのかを知ることの方が興味があるようだ。

そういった興味からいくと、あらためてオーヴェールで描いた絵は、荒い筆遣いにうねるような構図に特徴はありますが、あくまで目の前の風景を写し取ることに徹しています。

ゴッホ自体は、はやり風景画家であり人物画家であって、目に見えるもの以外を描くことはできなかったし、興味がなかった。そのうえで、どのようにその人とのゴッホ本人の関わりであったり、その景色や場所との関わりを具現化していくのかがゴッホが創作のうえで求めていたものではないかと思う。

モダンアート側から見ると、まだまだ近代絵画の域を超えていないのですが、そこからなんとかして逃れようとあがく姿が見えてきます。

絵画が変わろうとしているその瞬間にゴッホは、確かにオーヴェール・シュル・オワーズにいた。現地に行けた成果は、それでだけで十分なことのように思うんです。

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明日は「Food」。料理をおいしくない、とは言わない代わりに、「どうしてこの味にしたのか」については、しつこく聞いてしまう癖について。

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