見出し画像

引きこもりは日本的土壌が育んだ最適解

「引きこもり」は日本特有の『症状』であると言われる。
欧米では若者を個人主義よろしくいち早く社会人として世に送り出すことを是とし、中華圏では厳しい学力競争に打ち勝つことにより若者を一族の代表として期待することは当然とされている。
日本はこの西洋と東洋の近代若者感を神仏習合しつつ、独自のイエ・ムラ的な土台からカテゴライズし、リクルートスーツを着込んで集団就職するという帰結に至った。
欧米や中華圏より社会的合理性圧力は穏やかではあるものの、同調圧力が極めて強い独自の文化となったのだ。
欧米や中華圏の格差やヒエラルキー化ほどではないが、逆に言えば一度脱落すると最底辺まで一気に下降し、コミュニティから弾き出されてしまうのだ。
かつてのイエ・ムラ的な百姓コミュニティが戦後破壊され、そこを会社が担うようになった。
故にムラ総出の互助関係の上で米作りに勤しむことにより演出されていたコミュニティを、会社=経済原理がその代役になったわけだ。
資本主義経済的合理性によるコミュニティは、バブルまではまだ機能していた。
しかし、バブル崩壊後、失われたウン十年の間にその疑似コミュニティは崩壊し、派遣会社だけが儲かる仕組みに改変されてしまった。
すると残されたのは、経済的な合理性だけである。
そこにはコミュニティなどコストでしかなく、排除の倫理で既得権益者を不安にさせ、小さな世界へ押し込め、低賃金で働くことを義務付けられてしまう。
コミュニティなど不要であると思われるであろうが、ほとんどの人間はコミュニティ内でしか自分を位置づけられない、基礎づけることができない。
コミュニティに属していなければ、自分がどういう存在であるのかわからないのである。
故に、社会から運悪く(そう、本当に運だけで)弾き出されてしまうと、もはや自己同一性すら不明の虚の存在となってしまうのである。
一度虚に落ちると、そこから這い上がる意味を見いだせない。
なぜなら一度落ちた人間は、行政すら感知できないくらいとことん落ちるからだ。
コミュニティがあれば、落ちたとしてもそこには「経済合理性からたまたま弾き出された自分」がいるだけで、「コミュニティ内の自分」は存在する。
それは家族や近所や友人や草野球チームでも何でも良い。
しかし、会社任せのコミュニティしか残されていない現代において、さらにそのコミュニティに属することすら難しい現代においては、一度弾かれた人間は『無価値』であると思い込んでしまうことは無理もないであろう。
だがそれは全く持って見当違いであり、世界は一つではない。
大谷翔平は野球の天才であるが、野球という世界があるから天才でなのである。
もし、世界に野球が存在しなかったら、岩手の田舎で普通の会社員をしていたかもしれないのだ。
そういった妄想すら許されないのが日本社会でもある。

だがこういった問題はグローバル経済下においてはどの国も似たりよったりの問題はある。
なぜ日本だけ特別に引きこもりが多いのであろうか?
それはまだ相対的に経済的に豊かであることは第一条件であろう。
8050問題のように、恵まれていた親世代にパラサイトすれば餓死することはない。
もうひとつの原因は、日本の豊かな『異世界コンテンツ』のためであろう。
先程「世界は一つではない」といったが、日本は異世界コンテンツは無限にある。
先程の世界は。いわゆる現実世界のことだ。
欧米や中華圏が競争に勤しむのは、この現実世界しか世界はないと強く動機づけられているからだ。
日本も現実世界は一つしかないと思っているだろう。先程の大谷翔平のように、実は現実世界は可能性と捉え方で無限に存在するのに。
例えば、野球の才能がある大谷翔平がそれに気づかずに普通の会社員をしていて、毎日燻っていたとしよう。人はそれをもったいないと思うはずだ。
別に才能=金儲けではなく、単純に自分が楽しめる世界は必ずある。
しかし、日本社会は安定のために身を粉にして努力するという本末顛倒な「世界」を教育により強制する。
だからこそ、勘違いしたまま社会に出ることで、そこから落ちたときに絶望するのだ。これは親や環境も皆そう信じている、一種の宗教だ。
最近の若者はこの宗教を毛嫌いしているため、少しは光明が見える。
いくら奉仕しても見返りがないんじゃ奉る価値はない、とこれまたドライな合理性ではあるが。
引きこもりは自分を排除する現実世界に嫌気が差し、魅力的でひたすら安全地帯から眺めるだけの異世界コンテンツを自分の世界としているのだ。
これも合理的である。滅私奉公しても諸条件や運の悪さだけで冷酷に排除してくる世界に忠誠を誓う必要などない。
異世界コンテンツは漫画や映画やアニメなど無限にあるし、いまや生産側に回ることも簡単な時代である。
そこに自分の世界を見出し、いきいきと生きているのは現実世界からの現実逃避であると言われればそのとおりだが、それは現実世界しか世界はないと思っている了見の狭い既得権益者の視点でしかない。
願わくば、現実世界も多様な世界観を持ち、その可能性を閉ざされない環境設定、そして教育が必要だと思われる。
金儲けや安定や結婚やマイホームだけが世界ではない。
世界は自分で選ぶものであって、正解はない。
正解とされているものは、正解とされているものが正解であると言えば得する人間が作り出している共同幻想なのである。
まず世界を選ぶのは自分であると自覚し、他者への嫉妬や社会への僻みは無意味だと思うべし。また世界を選ぶのは自分自身であるからして、他人のことをどうこう言うことがすでにそれに毒されていると思うべし。
日本の同調圧力の正体は、世界はひとつだけ幻想である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?