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【雑記18】手で書く

私自身、
「覚えるときは手を動かせ」
教育された世代です。
テスト前には、とりあえず
裏紙にあれこれ書きなぐって
一夜漬けするのが常でした。
もともと
手で書き続けるのを苦にしないこともあり
テストのたびに腱鞘炎まっしぐら。
いつも激痛と戦っていましたし
今もロキソニンテープが手放せませんが
それは別の話(笑)

そんなこともあってか
最近、noteの記事を書くとき
全部ではありませんが
まずはノートに手で
下書きみたいなものを書き散らかします

以前は、下書きなしで
noteに一発書きをしていましたが
最近になって、とりあえず
アタマのなかにとっ散らかっているものを
手で書いて
目に見えるカタチにしないと
先に進まない
ことが増えてきました。

でね。

目に見えるカタチにするだけなら
パソコンで書いても変わらないのでは?と
思いますよね(笑)
それは私も思ったんです。
だからね、試してみたんですよ、
パソコンでの下書きを。

そしたら。

ものの見事に上滑りしましたよね
言葉も思考もなんもかんも。

それはそれは驚くほど滑り倒して
「カタチ」にならず。
いや、もちろん
「文字」というカタチにはなってるですよ。
でも、何と言いますか
「思考のカタチ」が全く見えなかったんです。

もしかすると、それは
私がパソコンやワープロが一般化する前に
学生時代を過ごしていたことが
いちばん大きな原因かもしれません。
でも、それはそれとして
この違いは何だろう?と思っていたところに
今日、その答えの一端に触れるnoteを
読んだんです。

それが、古賀史健さんの
『手で書くことの意味。』でした。

そこには、こんな文言がありました。

手で書かれた文章とは、すなわちレターである。
レターとは、メール(情報の伝達ツール)に
収まりきれないなにかである。

あ~なるほどなぁと。

考えてみると。
ノートに書き散らかすにしろ
手紙を書くにしろ
手で書くという行為は
アタマの中にごちゃごちゃとある想いを
細く途切れさせぬよう指先まで伝わらせて
「言葉というカタチ」を与えるものです。

だから、意外と
とっ散らかったままだったり
思ってもみなかった言葉が躍り出たり
暑苦しい何かが
ダダ漏れてたりすることが多くて。
書きながら、自分で
「何書いてんだ?」と驚くことも
しばしばあるわけです(え、私だけ?)。

でも、だからこそ
広がっていく世界も確実にあるわけで。

少なくとも、私自身は
パソコンで書く前に
「手で書かれた文章=レター」を
書くようになったからこそ
真四角なカドカドした文章が
ほんのり丸みを持つようになったのかなと
思ったりしています。

手で書くこととパソコンで書くこと。
もちろん、そこに優劣があるのではなく
出てくる部位とか、使う部位とかが
異なっているだけ。
どちらにも面白さはありますし。

でも、もし、最近手で書いてないなら
試しに書いてみるとちょっと面白いかも。
そんなことをふうわり思いつく
ステキなnoteでした。

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