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「言葉を演じるひとたちの」/『文芸翻訳入門』刊行記念トークイベントに行ったり、そうしたらいろんなことを思い出したり。

 たとえばほどいた先に見えるのは、遠い記憶のなかの光景。

 今は亡き祖母の家の、その涼しい畳敷きの部屋で。あるいは気ままな独身生活を謳歌する叔母たちが旅や仕事に行ったあとの、ひっそりと静まり返った彼女たちのベッドの上で。タオルケットにくるまった子どものわたしが夢中になって読書しているその脇に積まれていたのは、思えばそのほとんどが海外生まれの物語たちなのだった。

 わたしには叔母が五人いて、彼女たちはそれぞれ、ブルーグラスをやっていたり、ニット・アーティストとして個展をひらきながらアパートを借りて教室をひらいていたり、花屋をやっていたかと思えば海外ミステリーに触発されてある日とつぜんイギリスに飛んで二年も帰ってこなかったり、司書だったり演劇をやっていたり、なんだか妖精みたいにその日その日を自由に暮らしていて、そんな彼女たちの本棚に収められている児童書や小説や詩集や写真集の多くが翻訳書籍だったものだから、叔母っ子だったわたしもしぜんとその本棚の海外生まれの本を手に取るようになり、もちろん日本生まれの物語も読んではいたけれど、今でもはっきりと記憶に残っている児童書はいずれも海外生まれのものだ。その翻訳をしたひとたちの名前もとてもよく憶えている。立派な函に入っている『星の王子さま』は「ないとうあろう」だとか、『不思議の国のアリス』は「せりうはじめ」だったとか、『宝島』は「かねはらみずひと」だったとか。子ども心にひっかかる変な名前のひとが多かった、といえばそうなのかもしれないけれど。

 「本」というものには「枠」がないということ。日本生まれのものも海外生まれのものも、「本」という入れ物のなかで繰り広げられるその光景は、誰が書き、どんな言葉で書かれ、どこの国が舞台であろうと、「本」のなかにあってはまったく同じ次元のものだということ。子どものわたしにとってそれはとても当たり前のことで、考えるまでもないことだった。というより、自分がいま読んでいるその物語が「日本語で書かれている」のだと、あるいは自分が「日本語を読んでいる」のだと、それ自体を意識することがなかった。

 日本生まれの物語も海外生まれの物語も、そこにあるのはすべてが未知の世界のもの。その感覚が薄らいでしまったのはいつからだったんだろう。「小説が好き」と意識しはじめた中学生の時、その頃にきっと、子ども時代に親しんだ翻訳文学よりも、日本文学のほうが「身近」であり、「感情移入ができる存在」であり、「自分が生きていくための指標の物語」であるのだと思い込むようになっていたのかもしれない。中学時代になると叔母たちの家から足が遠のいて、そういえばその頃に叔母からもらったマイケル・ドリスの『森の少年』を読んだ時、「ああ、これは翻訳された言葉だ」と強く感じたのを憶えている。(言葉や名前について書かれた物語だったから余計にそう感じたのかもしれない、『森の少年』は今でも好きな本のひとつだ)

 大人になって大学を出て、本屋さんとして働いた。二年目になると、それまで扱っていた日本文学や評論や詩歌の棚に加えて、海外文学の棚も担当するように言われ、困り果てた。なぜ困り果てたのかといえば、海外文学の棚はその本屋のなかでもひときわ「荒れ地」だったからだ。海外文学および海外文学評論のスペースはあわせて6棚、地域では飛び抜けて大きい本屋だったけれどその棚の売上対策はどう見ても後手後手で、そもそも売上数が少ないからなのかまったく手入れをされずに陳列体系もぐずぐず、SFとミステリー、露仏独英米のほかはすべて「その他」として押し込められ、とりあえず配本数と発売日だけを加味して面陳平積みされた本たちは悲しげに埃をかぶっていた。ドストエフスキーやヘミングウェイはわかるけど、ソローキンとかアントニオ・タブッキとかミハル・アイヴァスってナニ人? とりあえず「その他」でいっか。入荷数2冊だから適当に挿しておけばいいよ、書評が出たら追加したらいいし。どんな話か、どんな系譜の作品なのかぜんぜんわからないから、返品や欠本はデータだけで決める。もちろんデータだけで決めちゃいけないのはわかっているけれど、海外文学がわかるひとがぜんぜんいないから仕方がない。あ、ひとりいるけど、でも担当がべつの分野だから仕方がない。長年そんな感じの扱われ方をされてきたからなのかどうなのか、海外文学のその6棚だけは手描きPOPの一枚もなく、積まれた本の隙間からは雑草がもうもうと生え伸びて、まるで文学コーナーの「影」のように沈んでいた。

 とはいうものの、新しく担当になったわたしも前任者たちのことを責められる立場ではぜんぜんなかった。担当になったその日から、子ども時代に使っていたぼろぼろの感性のスコップひとつを握りしめ、毎日やっとのことで海外文学の棚を掘り起こし、埃まみれの雑草を抜き、土を入れ換えて、新しい苗を植えていった。地道に頑張ってはいたけれど、子ども時代のぼろぼろのスコップはとうに刃こぼれしていたし何せサイズが小さかったから、どんなに一生懸命本棚を耕してもいっこうに新しい苗は定着してくれないように思えてかなしかった。 

 そんなわたしを見かねて毎日少しずつアドバイスをくれたのが、定年間近の仕入れの長老だった。ロマンスグレーの髪色に鋭い眼光、口数は少ないのに時折こぼす独り言はこめかみに銃を押し当てられた瞬間みたいにひやりと響き、暇さえあればプカプカとタバコを吸っている。そんなハードボイルド小説の私立探偵みたいな見た目なのに大好物は何を差し置いてもきんつば、とりあえずきんつば。そして休日は愛犬マルチーズとの河川敷さんぽ。奥さんの手作りお菓子が絶品。愛のある悪口を言っている時の笑顔が最高に可愛い。というなかなかチャーミングなおじいちゃんで、どうやらこの長老は若い頃からずっとずっと翻訳文学を愛してきたらしい。「荒地」で困り果てていたわたしに長老は自分が長年使ってきた知恵を貸してくれて、その知恵は、なめらかな手垢の染みたとても良いカマやクワみたいに、子ども用のスコップしか持っていなかったわたしの手にもすぐにぴったりと吸いついた。

 長老の知恵のなかでもとくにわかりやすく、そして今でも強烈に心に残っているのは「海外文学はまずは作者よりも翻訳者に注目すること」というものだった。よく見てみな。と、長老は海外文学の棚にずらりと並んだ背を指差してわたしに言う。「こういうのを読む人間ってのは悲しいことに少ないが、けど読むやつはみんな誰が翻訳してるかってのちゃんと見て買うんだよ。好きそうな雰囲気の映画に自分の好きな役者が出てたらあんただってそれ観るだろ、それと一緒だよ。翻訳者みりゃそれがどんなにいま大事な本で、どんなふうにこのさき話題になるかだってわかるよ」

 それからわたしは海外の小説を、翻訳者の名前をちゃんと見て、選び、買って読むようになり、棚をつくるようになった。「翻訳者」という存在を意識しはじめた途端「海外文学」という「枠」は、「翻訳文学」という「枠」にくるりとすがたを変え、そして「枠」が変わるとふたつはまったく別のものに思えた。子どもの頃は、「本」というものには「枠」がなく、日本生まれのものも海外生まれのものも、同じ「本」であるかぎりまったく同じ次元のものだと当たり前に思っていたのに、大人になって「翻訳文学」という「枠」を意識しはじめるや、逆に「枠」というものがポジティブな存在に感じられて新鮮だった。

 そうしてあらためて考えてみると、たとえば子どもの頃に読んだ海外生まれの物語がわたしに「枠」を感じさせなかったのは、その「枠=言葉」の紡ぎ手「翻訳者」たちが、その物語を読む子どもに「枠」を感じさせないようにする「枠」を試行錯誤してつくってくれていたからなのかもしれない。

 そんな感じで棚を掘り起こし耕しているうちに「荒地」は少しずつ落ち着きはじめ、手に馴染み、つたないながらもPOPをつけられるようになってきた頃、頻繁に面陳していたのが藤井光さんが翻訳した作品だった。『アヴィニョン五重奏』の5冊、『神は死んだ』、『タイガーズ・ワイフ』、『大いなる不満』、『かつては岸』、『ミニチュアの妻』、『夜、僕らは輪になって歩く』。面陳・平積みしていた位置や、隣になにを並べていたか、どんなPOPを書き、付けたか、どのタイミングでどれぐらいの追加発注をしたか、そしてそれらの本の表紙の細かいところまでも、今でも鮮やかに憶い出すことができる。うまく言葉にすることができないのだけれど、きっとわたしは藤井光さんのつくる「枠」が好きだったのだと思う。アンソニー・ドーア『すべての見えない光』を読んだのは本屋をやめてから半年が経った頃、あ、あの面陳贔屓にしていた翻訳のひとだ。と、なにげなく手にして裏のあらすじ書きを読んだその瞬間、背すじにひゅっと冷たい興奮が走った。読まなきゃ、と思った。そうして気づいたら買っていて、はっと我に返った時には自分のベッドのなかで半分ほど読んでいた。物語にこんなにどっぷり浸かって、涙がとまらなくて前が見えない、動悸がとまらない。そんなふうに感覚がおかしくなったのは「翻訳文学」では初めての体験だった。

 と、ここまでが長かった前置き。というわけで先日、その藤井光さんが編者となった『文芸翻訳入門』の刊行記念トークイベントが京都のモンターグ・ブックセラーズで開催されるというので、地図の読める頼もしい大学の後輩・いのうえくんに連れていってもらった。

 会場のモンターグ・ブックセラーズは西陣の住宅地の路地にあって、変なかたちのビルの2階。中学校の校舎の階段を憶い出させる暗くて大きい階段をぐるぐる昇ると、ぱっとひらけた空間にたどりついて、新品の本の匂いが立つような本棚にぐるりと囲まれた、明るいほら穴みたいなお店だった。ぎりぎりに到着したらすでにたくさんのひとがその穴のへこみに座っていて、文学系のトークイベントといえば中高年の方々が多いイメージだったけれど、二十代の、齢の近いひとたちもいっぱいいて、なんだかきらきらしているような。

 藤井光さんと同様に、宮下遼さんもわたしが本屋で海外文学の棚をよちよち耕していた時にとてもよく目にしていた翻訳者だった。とくに『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』は、学参担当の翻訳文学好きのひとから薦められて読んだら大好きな一冊になった。

 小説家というのはたいてい文芸誌でデビューする、ということを知ったのは中学に上がったばかりの頃に綿矢りさ『インストール』を読んだ時のことだったのだけれど、それ以降、文芸誌というものでつぎつぎに生まれてくるデビュー作を読むのが趣味、みたいになっていた時期があって、そんな時に「このひと好きだ。どうしよう」と衝撃を受けたのが谷崎由依さんだった。文章が、物語が、モチーフが、自分のあたまのなかにあるものと共振してくる。もしもわたしが小説家だったらこんなふうに書きたかった、そういう言葉を持っているひとで、初めて読んだあの作品からずっと、書かれるものすべて、ひとつも零さずに追っている、谷崎由依さんはわたしにとって文芸誌に載っていたらそこだけ光ってる、みたいな小説家だった。

 トークは2時間もあったのだけれどほんとうにあっというまだった。藤井光さんは驚くほどにチャーミングでキュートなひとだった。くだけた話を織り交ぜながらゆっくりと「翻訳」という作業のいちばん大切なところに近づいていって、宮下遼さんや谷崎由依さんにやわらかくボールを投げる。心地いい深夜ラジオを自分の部屋で聴いているみたいだった。藤井光さんの、左手で句読点のリズムを打ちながら原書と同調させて翻訳していくという光景。静かに、それでいて楽しそうにしゃべる藤井光さんは、『すべての見えない光』に出てくる鳥を愛するあの少年によく似ていた。carとcatをうっかり見間違えたために、あやうく街で数匹の猫を燃やしてしまうところだった、といたずらっ子みたいに笑う。同じく誤訳の話題で宮下遼さんは、僕はちょっとした勘違いをしたせいでこの世に存在しない新しい食べ物を生み出してしまった、とさらに大きく笑っていた。トルコのひとの「光」の擬音。永遠に重ねることのできないそれぞれの言葉のことわざの話。アイオワで、木の上をリスが何匹も駆けまわっているのを目撃したその瞬間、squirrelって響きがそのままかたちになったみたいだ、と感じたという谷崎由依さんの話をきいて、いつか読んだ金井美恵子の作品(たぶん『タマや』だったと思う)に、「猫っていう生き物はまさに〈やーらか〉という字の感じがする」のようなことが書かれていたのをふっと憶い出したりもした。

 書き留めていたわけではないからあの晩に耳にしたお話はきっともういくつかあたまから流れ出てしまっているのだけれど、「翻訳というのは何にたとえられますか?」という藤井光さんの問いに対する、「演技かな、と思います」という谷崎由依さんの言葉はきっとこれからずっと忘れることはないと思う。翻訳は演技、というたとえを聞いたその瞬間、なんだかいろんなことが腑に落ちたし、もっと翻訳文学を読みたいと思えた。

 翻訳には、自分で一からつくる自分の小説とは別の距離感がそこにはあって、だからこそ他者の物語の上で堂々と言葉になり、演じることができる。けれど、好き勝手になりきるだけではそれは翻訳することにはならない。演技するには技術がいる。それはわたしがずっと感じていた「枠」づくりの技術であるのかもしれないし、物語そのものと向かい合う力であるのかもしれない。わたしは翻訳をしたことはないし良い翻訳文学の読者でもないけれど、誰かが翻訳した物語を読むことは、小説を書く技術を習得する大切な方法のひとつなのだろうと思う。あの晩の『文芸翻訳入門』の刊行トークイベントは、これまで聴いてきたどの文学トークイベントよりも「言葉をあやつる技術」、あるいは「小説を書く技術」そのものについて話されていたような気がする。『文芸翻訳入門』という本自体もそう、どのページをひらいても「文章を書く時に必要なそもそものテクニック」が記されている。「翻訳」は「言葉」と原始的に向かい合うとてもミニマルでテクニカルな行為。なんとなく、そんなことを考えたりもしたのだった。

 どんなにたくさんのモチーフを手に宿して書きはじめたとしても、小説を書いていたら、きっといつか行き詰まる時がくるんだろうな。と、ふと思うことがある。もう動けない、すすめない。情けなくうめいて、うつぶせになったままそれ以上書きすすめられなくなる時がきっとくる。モチーフやテーマや魂の叫びを宿した腕がちぎれてしまう。けれどもしそんな時がきても、もう片方の腕に「技術」さえあれば、その片方の腕さえあれば、なんとか地面を這って前進して物語を書きつづけることができるような気がする。「翻訳」をめぐるあの晩のお話は、そういう書き方の方法もあるのだと、温かく優しく気づかせてくれた。

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