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わたしのキセキとわたしの家族 #キナリ杯

なぜキナリ杯に応募するのか。
Nサロンで初めてお見かけした岸田奈美さんのエネルギッシュな姿にとても惹かれたこと、キナリ杯の巻き込む力、上昇気流に巻き込まれてみようと思ったから。
もう一つ、今感じている気持ちは自分にとってすごく大切にしたい気持ちだから、形にして残しておきたい、そう思ったからだ。

さあはじまるわたしのキセキとわたしの家族の話。

一つの記憶

自我が芽生える前の記憶が一つだけある

ベビーカーらしきモノに乗せられて、どこかの遊園地にいるみたい。視界には空が見えて、周りには姿は見えないけど何人か人がいて、穏やかな温かい空気を感じている、ただそれだけ。

幼少期のことはあまり覚えていないんだけど、これだけはおぼろげに覚えているんだ。

大人の階段を登って知った奇跡

小さかったわたしも随分と大人になった。そして、また大人の階段を一歩登るかのように、人生の大転換期を迎えている。

何かというと、離婚だ。

世間の皆々様には理解されないかもしれないけど、そんな大転換期でもわたしはものすごくものすごおぉーーーく幸せなのだ。

数年前までは、人生で起きてほしくない一番恐れていたことだったのに、わたしは自らの手でそれを選んだ。自分の周りにいる離婚経験者はみんなそろいもそろってハッピーそうで魅力に溢れている。そんな姿を見ていたら「あれ?別に起きても大丈夫なんだな」って思えたんだ。

親に離婚するつもりだと報告をするとき、反対されるかな?なんて心配は一ミリもしなかったけど、逆に賛成されて、めっちゃくちゃ背中を押された。それは後々振り返っても、恵まれてるなって思う。
わたしが報告をしたとき、父親があるカミングアウトをした。
「うん、いいんじゃない?俺もそうだし」って。

うん、いや、実は中学の時から知ってた。ごめん。

中学の期末か中間だかのテスト期間中に母親と話してたら、ふと「え、お母さんってさ、まあまあ若い時お兄ちゃん産んだよね」なんて話になって、準備していたのか、ついにこの時がと思ったかは不明だけど、思わずお母さんが教えてくれたのだ。「お兄ちゃんはね腹違いなのよ」って。

その話を聞いて、驚きはしたけど、不思議とうちの家族は特殊だとか変わってるとかそんなことは一切思わなかった。兄は歳が離れててとても優しかったから。
わたしが小学生の時、兄はもう大学生だった。ある日、家に私と兄二人だった時に、バイトに行こうとする兄を引き留めて「一人でお留守番が不安だからお母さん帰ってくるまでいかないで」とわたしは駄々をこねた。一瞬びっくりしてたけど、すぐにわかったとバイト先に電話をして、母が帰ってくるのを待ってくれた。大人になった今ならそんな理由でバイトを遅刻するとは何て優しいのだとすぐ理解できるんだけど、当時はあんまりよくわからなかったけれどとっても嬉しくて安心して、ああ優しいな~と思ったのを覚えている。

わたしが、”再婚”というその事実を知っていることを父は知っているのだろうか?とうっすら疑問に思いながら青春時代をかけぬけて、大人になって離婚の報告する時に、はじめてわたしと父の間でパブリックなこととなった。そうなんだね、と素知らぬふりをしながら「理由はなんだったの」と聞いてみた。
理由は思った以上にヘビーだった。父はいつも明るくてヘビーな過去を抱えているとは、これまで一切感じさせたなかった。そのことをものすごく尊敬した。
そして同時に、母親の芯の強さにも尊敬した。子連れの父との結婚は、当然猛反対されたそうだ。それでもなんとか父と結婚してくれたのだ。だから今わたしがここにいる。もう奇跡でしかないと思ってる。

実は、奇跡はもう一つある。数年前に亡くなったおじいちゃんは、あと数日でも第二次世界大戦が長引いていたら、特攻していたそう。おじいちゃんはあまり戦争の話はしなかったんだけど、いつだか親戚の集まりでその話を聞いた時にはゾッとしたものだ。

おじいちゃんが生きながらえてくれて、そしてツライ経験を乗り越えた父と母が出会って結婚してくれた、いくつもの奇跡が重なって、私がこの世に生まれてこれた。

両親に切ない報告をしたら、自分が生まれてこれたこの人生に感謝することになった。

わたしの絶大な味方

実は、私は身長152cmしかない癖に、一丁前にバイクに乗る。愛機はNinja250といって、とっても速そうに見えるバイクで、超安全運転してる。

高校の時、婦人警官になることを夢見て、身長制限の壁に早々に諦めたわたしは、バイクに対する憧れだけ諦められなかった。バイクに乗りたいと親に言って、当然のごとく猛烈に反対されて泣く泣く諦めた。
忘れかけていた夢を思い出して、結婚してからこっそり中型免許を取ってしまった上に、バイクをさっさと買った。
親にはもちろん完全に事後報告。
墓場まで持っていこうと思ったんだけど、ある時報告をした。そうすると母親から「お母さんは毎日悲しいです」とメールが届いてさすがに胸が痛くなった、けどバイクは降りなかった。

そんな母親を毎日悲しませるほどの娘なのに、母は娘の人生の大きな決断の時には全力で応援してくれた。いや、小さい頃からいつでも味方でいてくれてた。やっとわかったの。それに気が付いたらもう涙が溢れるのを止められるはずない。

私はほんとに恵まれていて、周りには「助けて」と言ったら手を差し伸べてくれる人がたくさんいる。離婚すると言って反対するような人は、家族でも友人でもだーーれもいなかった。”恥ずかしいことだ、不幸だ、人間的に問題ある人と思われる”って決めつけて自分を縛っていたのは自分だけだったのだ。

家族のカタチ

数年前に、おじいちゃんが亡くなった時、ものすごく後悔した。私は会える距離にいたのに、好きだったおじいちゃんが老いていく姿を直視できず会いにいかなかった。そしたら前ブレなく会えなくなってしまった。ものすごい衝撃と後悔、”ずっと”や”いつか”はないんだ、そう思った。それと同時にこれはおじいちゃんからの贈り物だ「自分の人生を全力で生きなさい」と死をもって伝えてくれてるんじゃないかと思った。

それからというもの私は自分の心を大切にして「自分の世界は大好きな人ばかりで、自分はその周りの人たちを大切にして、しあわせにしよう」って決めた。

今、私は愛すべき人たちに囲まれていて、とにかく感謝が溢れてしかたない。

血の繋がりだけが家族の絆じゃない。家族でいよう、大事な存在だ、そういう家族であろうと大切にするその気持ちが、家族を形成するんだと思う。私の人生にかかわってくれたすべての人は、私の家族だ。

小さな頃の記憶、あれは今でも変わらない。私は青空を見上げて前を向いて進もう。大丈夫、みんなが側にいて穏やかに温かく見守っていてくれる。

さて、みんなと一緒にしあわせになろう。これからみんなにどんな恩返しができるだろう。

どんな人生にするかは自分次第。

わたしの人生ははじまったばかり。

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