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永遠のグレー―吉田修一『怒り』

同時期に東京、千葉、沖縄に現れた三人の男。素性の知れない彼らを、戸惑いながらも受け入れる人がいた。

東京。エリートサラリーマンでゲイの優馬がサウナで出会ったのは直人。
千葉。風俗店で働かされていたところを保護された過去を持つ愛子の前に現れたのは、無口な田代。
沖縄。母子で逃げるように沖縄に移住した泉は、小さな島の廃墟に暮らす流れ者、田中と遭遇する。

自身も訳ありの彼らは、出会った男達の正体に踏み込むことなく、けれどいつしか関わり合いを深め、特別な相手となっていく。

そんななか警察は、指名手配としてとある殺人事件の犯人の写真を公開する。頬に三つ並んだほくろを持ち、左利きだという犯人、山神一也は、三人の男それぞれにどこか似ていた――。

似ている。いや、そう思えるだけ?
しかし、山神は整形もしているらしい。
俺の、私の隣にいるこの人は、殺人犯かもしれない……。
優馬達は、信じたい気持ちとは裏腹に、消せない疑念に囚われてゆく。

* * *

三人のうち、だれが山神なのか?
あるいはこの中の誰も、山神ではないのだろうか?
はじめは犯人当てのミステリーのつもりで読み進めていくけれど、やがて、この物語の焦点がそんなところにないことに気づく。
誰が犯人かは関係ないとさえ言ってもいい。この物語が問い続けることはただひたすら、「あなたは隣にいるその人を信じることができるか?」ということだ。

* * *

犯人のはずがない、間違いであってほしいと願いながら、優馬達は逆行するように、それぞれの相手に山神との共通点を探してしまう。ほくろの数が同じ、利き手が同じ、顔立ちもなんとなく似ている気がする。
それに何より、自分はこの男の素性を知らない――。
悪魔の証明のようだ。
本物の山神が捕まるまで、彼らは永遠に疑惑のグレーに苦しみ続けるしかない。
そして、そうやってすぐ傍にいる相手を疑わずにはいられない人々はこの三組だけではない。日本に、世界にいるはずなのだ。いくらでも、いつでも。

信じてる。でも疑っている。
アンビバレンスに引き裂かれながら、その根底にあるのはきっと、「信じたい」という願いのような想いだ。

直人がなんとなく優馬の家に住みつき、二人が一緒に暮らすようになってしばらく経って、優馬は冗談混じりに、「お前のことまったく信用してないし、何か盗まれたらすぐ通報する」と言う。
それに対し、まったく無反応な直人に優馬が苛立つ、というシーンがある、

「なんかあるだろ? お前のこと、疑ってんだぞ。泥棒扱いしてんだぞ」
優馬の言葉を直人は鼻で笑った。そして、「疑ってんじゃなくて、信じてんだろ」と真顔で言う。なぜか優馬は何も言い返せない。

信じることは、たぶん受け入れることに似ている。
いつかそんな場面に立たされたとして、私はその人の正体が何者であろうとも、その人がその人であるということだけで、誰かを信じることができるだろうか?

#書評 #怒り #吉田修一 #エッセイ


ハッピーになります。