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あの夏にずっと足を浸して

君の耳が好きだった。
君の耳は平均よりひとまわりくらい小さくて、耳たぶも小さくてあまりふくらみがなくて、溝がくっきりとしていた。
君の大学生のお姉ちゃんがピアスを開けた時、自分も早くピアスしたい、と言った時にはちょっと嫌だなと思った。その面積の小さな耳たぶに穴が開いてほしくなかった。
言ったら気持ち悪いかなと思って言わなかったけど。

ふだんは下ろした髪に隠れて見えないそれが、たまに君が髪を結んで露わになる日、僕はいつも何気ない顔をして君の斜め後ろに立ってはこっそり眺めた。
夏が近づいて気温が上がるにつれて君が髪を結ぶ頻度が増え、君の耳を目にする機会も増えた。
そのせいで学校からの帰り道、君は時々ふいに振り返って「なんでちょっと後ろ歩くの?」と不審そうな顔をした。
そのたびに僕は「別に」となんでもない顔で君の横に並びなおしたけど、振り返る君に合わせて揺れる髪とプリーツスカートの描く軌跡にいつも目を奪われていた。

だけど、今考えると、耳のことを抜かしたって、君はいつだって僕の少し前を歩いていたように思う。
僕の返事待たずに好き勝手にしゃべって、ある日はスマホに夢中になりながら、別の日はむっつりと黙り込んで、君は僕のことなんか待たずに小さな体に大きな歩幅でずんずん歩いた。
僕は待たれてもいない相槌を適当に打ちながらいつも、今君の手を後ろから掴んだらどうなるだろうって考えていた。

だからつまり、僕が思い出す君は、少し先を歩く後ろ姿ばかりだ。

8月も半ばを過ぎたある日、君から電話がかかってきた。
「夏なのにどこにも行けてない」って、回線越しのちょっと変な君の声は不満そうに言った。
「夏に着ようと思って買った服も全然着れてない」とも。
僕はそれに「あっそう」とつまらない返事をした。
それから二人ともしばらく黙り込んだ。
黙ったまま視界の端で壁掛け時計の針が一周するのを見届けて、それからやっと僕はその言葉を喉の奥から押し出した。

「海でも行く?」

まだ午前中だというのに、真夏の屋外は地獄のように暑かった。
最寄り駅の改札前で、僕は何度もキャップを脱いでは額の汗をぬぐった。
キャップをかぶっているせいで髪がぺったんこになってしまうのが気になって、時々自分の髪をぐしゃぐしゃとかきまぜた。

たまに思い出したように連絡は取っていたけれど、夏休みに入ってから一度も君に会っていなかった。声も、昨日電話するまで聴いていなかった。
一緒に行く想像だけしているうちに、夏祭りも花火大会も全部終わってしまった。
ただ暑いだけの、死ぬほど退屈な夏だった。
昨日までは。

「あれ、もういる」

視界の端に青がひらめく。

青いワンピースを着た君が立っている。
肩の出た、足首まである、涼しそうな素材のワンピース。
髪は下ろされている。耳は見えなかった。
何も言わないで突っ立っている僕に、君は不機嫌そうな顔をして「行くよ」と言った。

電車に乗り込んで、僕らはぽつぽつと会話をした。
終わってない宿題のこととか、そうめんに飽きた話とか。
時々会話が途切れると、そのあとどうやって話を繋いだらいいかわからなくなった。
いつも、どうやって会話してたんだっけ。

「それ、買ったけど着れなかった服?」

そうきいたら、君は決まり悪そうに答えた。

「ワンピースなんて普段着ないけど、ちょっと浮かれたときに買っちゃったの。でも、着ないともったいないじゃん」

それから、あさっての方向を見てこう付け足した。

「白もあったんだけど。さすがに着れないと思って、買えなかったよね」

その後君は、窓の外を眺めて黙ってしまった。
シンプルで装飾のないそのワンピースに、首の後ろに小さなリボンがついていることに、僕はその時気がついた。

2時間ほど電車に揺られて、僕らは海に着いた。
お盆休みは終わっていたけれど、晴天の八月の海辺はまだ人がたくさんいて、僕らは拍子抜けして、それでようやく変な肩の力が抜けた。

海に来たというのに、二人とも泳ぐことを全然考えていなくて、水着の用意なんてなかった。
人の少ない浜辺の端っこでサンダルを脱いで、君は波打ち際に歩いていった。
波がかかるぎりぎりのところに立って、打ち寄せてきた波に足を濡らして、「冷たい」と言って笑った。
それから、長いワンピースの裾を握りしめ、ふくらはぎの真ん中くらいまでざぶざぶと入っていった。

「冷たい」
「ねえ、冷たくてきもちいい」

さっきまで無口だったのが嘘みたいに、君は大きな声を上げて笑った。
砂浜に突っ立って、僕はそれを見ていた。
その時の僕の目は、信じられない解像度でその光景を捉えていた。
白い水しぶき、ワンピースの小さなしわ、空と海の青さの違い、髪の隙間から一瞬見えた小さな耳。

肺の上あたりが潰れそうな感覚を抱きながら、僕は目を見開いてそれを見つめた。
全部を焼きつけようとするみたいに。

君はボーイッシュでラフなタイプで、だからワンピースとかリボンなんて普段は身に着けないって知っていた。
でもあのワンピース、似合ってたよ。
あの日の君はとびきりかわいかったよ。
白いワンピースが欲しかったって言ったけど、君には白より青のほうが似合うと思う。
つまり、あの夏の、あの日の君は僕にとって完璧だった。

あの日、そんなことひとつも言えなかったけれど。

いつか君の小さな耳たぶにはピアス穴が開くんだろう。
それを惜しいと思いながら、でもきっと僕は耳で揺れるピアスに目を奪われて、ああこれも悪くないかもなんて思うだろう。
そんな妄想はできるのに、来年君とまた夏に海に来る想像ができないのはなんでだ。

肺の上あたりが潰れそうな感覚を抱きながら、僕の目は信じられない解像度で君を見ていた。
全部を焼きつけようとするみたいに。
この夏がもう来ないことを知っていたみたいに。

10年後の夏、大人になった僕は、思い出話として君の話をするんだろうか。
「好きになった子の耳が好きだった」って。
「夏休みに一緒に海に行ったのに、告白できずに帰ってきちゃったんだよ」って。
同僚相手に、ネクタイをゆるめて、ビールなんか飲みながら。
あの完璧な夏の日をただ甘酸っぱいだけの記憶にして。

そんな未来を見るくらいなら、僕はあの夏に置き去りにされたい。
息を止めて、胸が張り裂けるような錯覚の痛みを感じながら、完璧な君と一緒に。
二人でずっと、あの夏に足を浸していたかった。

BGM:ヨルシカ「言って。」

#小説 #青春 #夏 #海 #あの夏に乾杯

ハッピーになります。