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木曜の贅沢

木曜の贅沢までの道のりは長かった。

「よくおひとりで飲まれるんですか?」
「いえ、そうでも。今日はいつもと違う事がしてみたくなったんです。」
「そうでしたか。」

退勤後に走って向かった個展。
ほとんど人のいないギャラリーで涙を流し、
数分前から宝物になった写真集を抱えて誇らしく歩いた。


月が出ていた。
猫と目が合った。
良かった、ここまで来られて、と心底安堵した。


電車が自分の数メートル前を横切る大げさな音ではっとした。
自分は何をしようとしていたのか、
選ばなかった方の可能性を想うと足がすくんだ。
でも、また同時にそれを選べずに
恐ろしい、いつも通りの明日が来ることにがっかりする自分もいた。

往復5時間の通勤時間に、莫大な業務量に、
いつ鳴るかわからない社用携帯に、
初めて営業という職業に携わった私は疲弊していった。

哀しみも、嬉しさもない。
怒りも安寧も、どこにもなかった。
心が動けばその分だけ、この場所に戻ってくることに時間がかかる。
それが怖くて、
ただの1ミリたりとも心を動かさないことに集中していたら
いつの間にか、全部全部消え去ってしまった。

他にやり方はきっと山ほどあっただろう。
あんなに好きだった本を読まなくなったことがサインだったのでは?
ごはんの味がしなくなったのは、いつからだった?

こんな痛みを持ってしか学ぶことができないなんて、
やっぱりあなたは相当な大バカ者だけれど、
あなたがあの時その選択をしなかった代わりに、
たくさん迷いながらも「辞めます」と伝える勇気を持ったこと。


「あれはかなりの大正解だったと思うんですよね。」
「それで今の会社に移ったんですか?」
「はい、まあ結局はグループ会社への異動という形で営業から離れたんですけど。」
「なるほど。もう一杯いきます?」
「明日も仕事だから、次で終わりにします。」

大丈夫だとか、そんな美しい言葉をあなたに送るつもりはありません。
ただ、生き続けることは地獄で、
それでもあなたは意外としぶとくて、
かなりの長い道のりだけれど、
ちゃんと木曜の贅沢が、あなたにも訪れるという事。

それだけを、ここに。


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