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ジジイは私の風呂を覗きたい
私は、じいちゃんが大嫌いだった。
3歳のとき、両親が離婚。母についていった。
まもなく、ばあちゃんが亡くなった。
そして、母・弟・じいちゃんとの奇妙な4人暮らしがはじまった。
中2のとき、生理がきた。それが呼び水となり、洗濯板みたいにスターンと平らだった私の胸が、みるみると成長。だんだんと女性らしく、コカコーラの瓶のように丸みを帯びた体つきになってきた頃。
じいちゃんは、私の風呂を覗くようになった。
家の構造も悪い。ご先祖さまから受け継いだ築60年以上の古民家だ。風呂のぞきが容易いシステムになっている。
脱衣所が、リビングからトイレに行くための廊下に面している。しかしながら、トイレに到達できるルートは、その廊下だけじゃない。
「家族のだれかが風呂に入ったとき、その廊下は使わない」という暗黙のルールがあったはず。
私のおっぱいのせいで、ルールはシレッと崩壊した。
裸で脱衣所にいると、100%危険だ。そこで私は、風呂のなかにバスタオルを持ちこんで体をふき、そこで服も着てしまう、という新習慣を生みだした。
風呂あがりなのにジメッとする・・・
面倒くさいこと極まりないが、裸を見られるよりはマシだ。
それなのに。
じいちゃんは、風呂のドアを突破してくる。
ガチャ。
「ああ、入ってるのか。」
・・・・・。
いやいやいや。
シャワーの音と電気ついてるから分かるっしょ。
私が「入ってるよ」と無理やりドアを閉めるまで、じいちゃんは地蔵のように動かない。
私は母に泣きながら相談した。
母は夜なべして、脱衣所と廊下を仕切るためのカーテンをこしらえてくれた。
これでもう覗かれまい!ハラハラとおびえながら風呂に入る人生に幕がおりた!
正式に脱衣所で、風呂あがりの体をふいて、パジャマを着れるのもうれしい。
本来、脱衣所とは読んで字のごとく"服を脱ぐ場所"なのだ。
私は飛びあがってよろこび、母に「ありがとう!」と抱きついた。
カーテンを設置して、はじめての風呂時間がやってきた。
私はウキウキしながらカーテンを閉めた。この命のカーテンが効力を発揮してくれることを祈りながら、スルスルと服を脱いだ。
シャンプーをしていると・・・
信じがたい音が背後から聴こえ、耳を疑った。
シャッ
え?今カーテン開いた・・・?
ガチャ
「ああ、入ってたのか。」
入っとるわボケ
このクソジジイが!!!!!
「もう!やめてよ!キモイ!」
私が泣きながら叫ぶと、じいちゃんはそれを上まわるブチ切れをかましてきた。
「年寄りをバカにするなあ!!」
そして、私の尻をたたいてきた。理不尽すぎる。
そうなのだ。じいちゃんは本当によく私の尻をたたいてくるのだ。
じいちゃんが歩くと、無垢の床が「ギシィ。ギシィ。」ゆっくりと軋む音がする。
私はその音が聴こえるたび、勝手にビクゥッ!としてしまう、思春期をすごした。
母は、三姉妹の末っ子だった。本来なら、上のお姉さんが実家をつぐ予定だったけど、じいちゃんがガンコすぎて、2人の姉は逃げるように他所へ嫁いでいったらしい。子供の私でも、納得だ。
ばあちゃんが50代で亡くなったのも、のちに母が40代の若さで亡くなったのも「あのガンコじいちゃんと同居してるせいではないか」と、まことしやかに噂された。
以前の記事「3歳で生き別れた父を探してみた」で、母が亡くなり、弟とケンカしたあと1人で夜逃げした話を書いた。夜逃げの決断ができたのは弟のセリフが決め手にはなったけど、じいちゃんの存在もあったからスッといけた。
私が弟に嫌われていた原因の1つとして「じいちゃんへのあたりがキツイ」のもあったらしい。それは弟なりの正義だ。
女のからだの私がどれだけ恥に満ちた思春期を過ごしたか、弟には理解できまい。
弟のご所望どおり、じいちゃんにやさしく対応できない申し訳なさに、どんどん自尊心がエグれていった。
母がまだ生きている頃、唐突にこう言われた。
「恵利ってなんだかんだ、おじいちゃんの趣味を遺伝してるよね。」
それを聞いた瞬間、もう認めたくなさすぎて。マンドラゴラを引きぬかれたレベルの癇癪を起こしそうになった。
ほんっとうに認めたくないけど。冷静に考えてみれば、母の言うとおりだった。
じいちゃんの趣味は、カラオケ・風景写真・盆栽いじり。
家にいるときは爆音で演歌を流し、しょっちゅう富士山を撮ってきては自慢して、せっかくの広い庭をすべて盆栽で占拠していた。
当時の私は、音楽大学で声楽を学んでいた。よくカラオケも行く。一眼レフを購入し、いつもカメラを首からぶら下げているスタイルだ。
「どんなに嫌いな家族でも、そういうとこは遺伝しちゃうんだね。」と、母は笑った。
米国のサプリくらい飲みこみにくい話に、私はすこぶる不満げな顔をするしかなかった。
母が亡くなって13年。現在の私は。
カラオケに行くとなぜか、じいちゃんが好きだった「天城越え」を歌っている。
「富士山のなにがいいわけ?」とディスってたくせに、今では月に1度は拝んでいる。行くたびに違った表情を魅せてくれる富士山を、何度もカメラにおさめている。
家庭菜園という趣味が追加された。畑をながめていると、時間をわすれる。盆栽もいいかも…と、ちょっとだけ思っている。
いやいや、じいちゃんと一緒じゃん。
私が夜逃げしてから、じいちゃんとは一度も会っていない。まだ生きてるのか、ボケてるのか、死んでるのか。知らないし、興味がない。
私が1人で実家を出て「心配している」と風の噂で聞いたのが、10年前。
「知らんがな」と口では言ったものの、ちょっとだけ心臓のあたりがギュッてなった。
まぁ、じいちゃんが生きていようが死んでいようが「そっかぁ」としか思わないだろう。
もう会わなくていいや、今世では。
もし私が死んで、あの世でじいちゃんと再会することがあれば。
一緒に天城越えとか歌ったり、富士山や盆栽の話でも聞いてみようかな。
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