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3歳で生き別れた父を探してみた

父がいない家庭は、めんどくさい。

「今日は父の日です。お父さんの絵を描きましょう!」

こんなお題が、小1の授業でブン投げられた。

ちち、しらん・・・!


周りの生徒たちは、すぐさまお父さんの絵を描きはじめた。クレヨンがコツコツと机をたたく音が、全方向から聴こえてくる。

私は、もみじのように小さい手で、まっ白な画用紙を持ったままフリーズしていた。そろそろ、みんなのお父さんは輪郭ができあがっている。

父の顔は覚えていない。声も、名前も。知っているのは「私が3歳のとき離婚した」という事実だけ。

父について覚えていることもある。それは、彼が極めて凶暴だったこと。お母さんの顔には、いつも大きなアザがあった。

たしか、お母さんは暴力から逃げるため、はだしのまま私を抱えて家をとびだした。

「ハァ、ハァ」と息を切らして、しばらく走ると・・・皮肉なほどに美しい水色の海が広がっていたような気がする。

お母さんは、わんわん泣いていた。ほほをつたった大粒の涙が、私の顔にポツポツ落ちた。しょっぱい・・・

・・・と、記憶はあいまいだけど。

そんなヤバそうな父を、どうやって描けばいいのだろうか。

私は、おそるおそる手をあげた。

先生が近よると、まだ白いままの私の画用紙になにか察したようだった。

「お父さんがいない人はどうすればいいですか」

「それでは、おじいちゃんを描きましょう」

私は、じいちゃんが嫌いだった。すぐ怒るし、すぐ尻をたたいてくるし、すぐエロ本を買ってくるから怖い。

描きたかないが、授業ならばしかたあるまい。


クラス全員の絵は、廊下に貼りだされた。

「お前の父ちゃん、シワシワじゃん!なんで目が3つあるんだよ!ギャハハ」

男子たちが、よってたかってバカにする。

目が3つあるんじゃない。じいちゃんのこめかみに、でっかいシミがあるから忠実に再現しただけだ。

「お父さんがいない家庭って、変なのかぁ。」

いなくて当たりまえに育ったから、うれしくない新発見だった。



時は流れ、私は女子高生になった。

白ギャルの同級生に「お願いっ!とりま来て!」と手をひっぱられる。合コンに行くらしい。女子校だったからか、男子とお近づきになるためのイベントは日常茶飯事。

通学路にある、カラオケに到着。

ひとしきり歌ったあと「休憩しよ〜!」と、談笑コーナーに切りかわる。ドリンクバーのペプシを、細いストローでちゅうちゅう吸いながら。

「人生で、はじめての記憶ってなに?」

イワトビペンギンみたいな髪型の男子が、こんな話題をふってきた。

今まで仲がいい友達からは、私に父がいないことを気づかってか、幼少期の話題をふられなかったけど。

どうしよう。

「遊園地に行った」

「おかあさんといっしょ観てた」

「父ちゃんに抱っこされてゲロ吐いた」

とてもゆかいな回答が出そろった。私は「家族でカレーを食べた」と答えておいた。パッと思い浮かんだのは、少しちがう。

父がブチギレながら帰ってきて「うらぁぁぁ!」と、お母さんがつくったカレー鍋を部屋中に撒きちらした。

カレーまみれになった部屋に、お母さんはヘタリとひざから崩れおち、顔を隠してわんわん泣いている。

「お母さん、だいじょうぶ?」と声をかけながら近づくと「恵利は部屋に行ってなさい!」と、ほぼデスボイスでおこられた。

正解は「家族でカレーを食べたかった」

でした!




「お母さんに似て、よかったね。」

よく友達から言われたけど、どうも自分ではそう思えなかった。

私とケンカするたび、お母さんは「怒った顔がアンタの父親にそっくり!」と、決めゼリフを吐いたから。

「へえ、そうなんだ。」と、いつも言い返せなくなる。ジョーカーが私の手札にのこって完敗するババ抜きのように。

鏡で自分の顔をのぞきこむ。
やっぱり、お母さんに似てるよな。

いや、待てよ・・・。


・・・誰やねん、このオッサン!!

たしかに、知らないオッサンが私の顔に住んでいる。そこに居るなら住民税を払ってほしい。

鏡をのぞくたび、自分が何者なのか、わからなくなった。


父がどんな人だったか、お母さんはなにも語らない。だからあえて、私からも聞かなかった。

だけど10歳のとき、お母さんに一度だけこんな質問をされた。

「お父さんに会いたいと思う?」

弟と3人でドライブ中で。前の運転席から聴こえるお母さんの声は、なんだかとても悲しそう。

「父さんなんていらないし!お母さんがいるもん!」

間髪いれず、弟が言った。

まんまるの小さな顔に、キュルキュルと輝いた目をした弟がとなりにいる。こんなに可愛い生き物がほかにいるだろうか。

私はお母さんを悲しませまいと「別に。いまさらって感じ。」と答えた。なんとも可愛げがないレスだろう。

こういうところが弟と違って、父に似てるのかもしれない。


「いつかお母さんが死んでしまったら、せめて父がどこでなにしてる人間なのか調べてみよう」

自分のなかで、そういう風に決めていた。

まあ、父に会えたところで拒否されるかもしれない。すでに死んでる可能性もある。

こっちだって、どうしても会いたいと思ってるわけじゃない。

ただ、父がどんな人だったのか知ることで、自分が何者なのかわかるような気がした。私の人生が終わるまえの「ケジメ」ってやつだ。

父を探すといっても、お母さんが亡くなってからの話。私のルーツを知ることになる「Xデイ」は、たぶん半世紀くらい先の未来だろう。

・・・そう思っていた。







私の大学卒業式、翌日。

「ちょっと頭痛いから横になってくるわぁ」

お母さんはそう言い残して、自分の部屋にこもった。こんなことは、めずらしい。

週5回もジムに通い、剣道部の弟よりも腕ずもうが強い。昨日だって卒業式で、私のゆるんだ袴をものすごい力で締めなおしてくれたのに。

すこぶるアクティブなお母さんが「横になる」

とても嫌な予感がした。


「余命一年です。」

窓から満開の桜がみえる病室で、お医者さんからしずかに告げられた。

悪性脳腫瘍ステージ4。
いわゆる、脳のガンだった。

せめて私の卒業式まで見送ろうと、ふんばってくれたのかもしれない。

たしかに、ここのところ物忘れが激しかったり、なぜか会話が通じなくてケンカになったりした。

「ねえ、お母さん。1人で我慢してたの?」

もう、まともな会話ができなくなってしまったお母さんと、桜が散っていくのをボーッとながめる。

何度も「これは嘘であってほしい」と願った。



そして、1年後。
本当に、お母さんは亡くなった。

あのときと同じ、満開の桜がヒラヒラと散っていくなか、私は黒い服を着ていた。


お母さんの死から、4ヶ月後。

私は東京都の某市役所にて、挙動不審にウロウロしていた。

「どんなご用件ですか?」

職員の方が声をかけてくださり「父親の現住所を知りたいのですが。」と答える。

「まさかの特殊用件キター!」とは言われないものの、職員さんの顔にはそう書いてあった。

「そうなりますよね…ごめんなさい…!」とまゆげをハの字にしたまま、5秒くらい時が止まった。

沈黙のあと「こちらのカウンターへどうぞ」と通してくれた。


市役所でもらった戸籍をジッと見つめて、一言一句も逃すまいと読んでいた。

無骨に印字された紙きれには、淡々と、わが一族のドラマが記されている。家族にどんな過去があったかなんて、誰からも聞かされずに成人しちまった。

じいちゃん・・・バツイチだったんかい。しかも半年後に、ばあちゃんと再婚してる。不倫じゃね?ほんと嫌いだわぁ・・・って、じいちゃんの武勇伝はさておき。

私は、はじめて父の名前を知った。

さらに、両親の離婚後、父の戸籍は沖縄県に置かれていると判明した。しかし、ここでは現住所を特定できないらしい。

実際に沖縄の市役所で聞いてみないと分からないし、行っても引越しなどの理由で教えてもらえる保証はないと言われた。

それでも、自分のルーツを知りたい。

その想いだけで、私は沖縄へと発った。



那覇空港に到着したのは、午前3時。

格安の航空券しか買えなかったから、こんな変な時間に着いてしまった。

「めんそーれ」


でっかい筆字がお出迎え。たぶん造花のハイビスカスが、あちこちに配置されている。それよりも、生あたたかい空気のほうがリアルで「沖縄に来たんだ」という実感を与えてくれた。

バックパックを抱えて、空港のベンチで朝まで寝る計画だったけど、「閉館します〜」と独特なイントネーションで外に追い出される。

まだ電車もバスも動いてないさ〜。

しかたなく、なけなしの財産でタクシー代を払い、とりあえず市役所まで。

到着したら、暗闇のなかベンチに座った。だんだん登っていく沖縄の太陽とともに、市役所が開くのを待つ。


市役所では、いろんなことを質問されたけど、「実の娘でも正当な理由がないと現住所は教えられないので・・・」と、市役所内をたらい回しにされていた。

そして、3時間ほど経ったころ。
1枚のメモが、スッと渡された。

そこには2つの住所が書いてある。
父の家と、父方のおばあちゃんの家だ。

市役所の方々のご尽力に「ありがとうございます!」と頭を下げた。

「がんばって。行ってらっしゃい。」

メモをくれた職員さんが励ましてくれた。沖縄あったけえ。胸がジーンとした。


3歳のとき、父から聞いた最後の言葉はこうだ。

「お父さんは遠くに行くから。」


遠くってどこだ?インドか?

妙な「遠く」の定義を決めてしまったせいで、二十歳のとき、なんとなくインドに行ったことがある。

あてもなく、さまよった旅もあったけど。

今確実に、父の現住所は私の手のなかにある。

予約していたゲストハウスに荷物を置いて、まずは、おばあちゃんの家を探すことに。いきなり父は怖いので、おばあちゃんクッション作戦でいこう。




沖縄はどこか、なつかしい雰囲気。

8月の炎天下。ジリジリとした太陽に焼きつけられる。その暑さにさえ、ワクワクしてしまう。レトロな小道の住宅街に入った。玄関先には、あたりまえのようにシーサーが点在している。

美しい水色の海が見えた。

あの日お母さんが、はだしのまま私を抱えてながめた景色は、やっぱり海だったのだ。

記憶と現実が、PPAPのようにドッキング。心臓の音しか聴こえなくなるほどドキドキした。もしかしたら、お母さんはこの場所に立っていたのかも。



そして、ついに見つけた。

市役所で教えてもらった、住所の家のまえにいる。


表札の苗字は?

うん。メモと一致してる。


「まちがいない。ここだ・・・!」


ピンポン。


ベルを鳴らすと、ドアの向こうから「どなた?」と、おばあちゃんの声が聴こえた。


「あの・・・まゆみ(母)の娘です!」

「は?!」

「まゆみの娘で、あなたの孫です!」

「・・・は?!ちょっと待って・・・」


完全に物音がしなくなった。

警察にでも通報されたんだろうか。


3分ほど経ったころ、ドアが開いた。

そこには、動揺したおばあちゃんがいた。

「恵利!」と叫んで、ハグをしてくれたあと、すぐに「入って!」と家のなかに招かれる。

こんなにすんなり入れてもらえると思わなかったので、急に安心して涙がブワッとあふれてきた。

おばあちゃんは足が悪く、少しボケてしまっていた。旦那さんは20年前に亡くなったらしい。

「お父さんは、お母さんをすごく愛していたさ。本当は離婚したくなかったさ。暴力をふるってしまったことを後悔してるさ。

きっと毎日、恵利たちのことを思っていたさ。」

涙を流しながら、何度も何度も同じ話をしてくれた。

おばあちゃんのシワシワの目元に滲んだ涙を見ながら、私は生まれてはじめて、父の生きてきた道をたどっていた。


離婚後も子供たちに会えることを条件に離婚したのに、じいちゃんが「だめだ!」と言って、一切会わせてもらえず、愕然としたそうだ。

誕生日プレゼントを送っても「そういうことはやめろ!」と送り返され、東京まで会い行っても「帰れ!」と追い返されたらしい。

私に会わせなかったのは、じいちゃんなりの家族愛だったのだろう。

子供の私から見た父は、あっさりと出ていったようなイメージだった。

父と暮らしていたころ、きっと幸せな思い出もあったんだろう。そこに愛はあったんだろう。

私はぜんぶ忘れてしまった。部屋中にばら撒かれたカレーの匂いしか印象にない。あと、死んだばあちゃんが描いてくれたアンパンマンの絵を父に破られ、この世の終わりぐらい泣いたら殴られたこと。

ようやく父と連絡がついて、おばあちゃんの家に父がやってきた。

20年以上ぶりに見る、父の姿は・・・



弟だった。



竜宮城でもらった玉手箱とか開けた?
タイムマシーンに乗って未来から来たの?

それくらいオッサンになったバージョンの弟だったもんだから、私は「あはは!弟だ!」と笑ってしまった。

「ども…。」って、気まずい滑りだしになると予想してたから、笑ってしまう自分にも笑けてくる。人は、緊張のリミッターが一定数こえると爆笑するらしい。

びっくりしたのは、今でも苗字が私と同じことだ。父は離婚直前、婿養子になっていた。

「なんで名字を戻さなかったんですか?」

と質問すると、父は「仕事の関係でめんどくせえから」と、ぶっきらぼうに言い放った。

そのあと、おばあちゃんがソッと重ねるように補足した。

「今でも、まゆみちゃんのことが忘れられないさ。」


そういえば、お母さんが亡くなる数日前。

脳腫瘍だから会話という会話はできないけど「いつか返事をしてくれるのでは」と願いながら、ずっと話しかけていた。

「お母さん、旅行するならどこに行きたい?」

お母さんはミュージカルが好きだったから、当然、本場のブロードウェイを観るために「ニューヨークでしょ!」と確信してたのに。

「・・・・・おきなわ。」

しゃべった!・・・えっ、沖縄?(笑)

そのとき私のとなりにいた、お母さんの姉が「ハァ!」と大きなため息をついて、頭を抱えた。

「どうしたの?」と聞くと、お姉さんから真実が告げられる。

「恵利ちゃんはね、沖縄出身なんだよ。お父さんは沖縄の人。父方のおばあちゃんは太陽みたいな人だったよ。

まゆみちゃんはやっぱり、今でもお父さんのことが好きなんだね。忘れられなかったんだね。

母は脳のほとんどが壊れていく死の直前に、父のいる沖縄に想いを馳せていたのだ。

生まれてはじめて「両親どちらとも話す」という経験を通して、ようやく私のルーツがわかったような気がした。

お父さんとお母さんと私。3人でテーブルを囲んで語り合うことは、もう叶わないけど。

20年以上経っても、好き同士じゃん。


「2人とも、いい歳こいてバッカじゃないの!」

・・・なんて茶化して、笑い合えたら、どんなによかっただろうか。


両者の意見が、異なるところもある。
私の名前の由来や、離婚後のルールなど。

みんなが違うことを教えてくれるから、私の過去にまつわることは、結局なにが本当かわからない。

だけど、そんなこと、どうでもよくなった。

過去がどうであろうと、“私が今ここに存在している“ことだけが、唯一の真実なんだ。

そして2日後、私は東京に戻り・・・

・・・たかったが、どえらい台風が来た。東京行きの飛行機が飛ばない。

ホテルを予約しようとしたら、父が「うちに来い」と言ってきかないので、台風が去るまで父の家で過ごすことになった。

申し訳ないが、私はどうしても父を、自分の親だと思えなかった。人としても苦手なタイプかもしれない。

「お前の笑い方、まゆみにそっくりで、まゆみがいるみたいで気持ちわるいな。」

とか、

「あいつはしぶとく長生きすると思ったけどな〜。」

とか。

タバコをパカパカ吸いながら、デリカシーのないことを言う。

「おいおい、そんな言い方するから離婚されるんだぜ。」とツッコミを入れるほど仲良くなってたまるか。という反抗心すら生まれていた。

お母さんの死を伝えるためだけに会いにきた、と言っても過言ではない。

元妻の死のショックより、私と仲良くなりたいと詰めよってくる感じが、お母さんを亡くしたばかりの私にとっては複雑だった。

本音を言えば、もっと一緒に絶望してほしかった。

まあ、20年以上も離れて暮らせば、そりゃタバコもパカパカするわな。あとは照れかくしなのか。知らんけど。

私にとって、お母さんはすべてだった。母であり、父でもあった。1人2役、立派に演じきってくれた人。

だから、お母さんの顔が寂しそうにこちらを見ている気がして、胸がいたい。

台風は去り、私は東京へと戻った。



それから父とは何度か連絡はとったけど、今はもう途絶えている。

13年以上も音沙汰なし。
父はどこでなにしてる人か、再びわからなくなった。

両親がいないのは寂しい。
だけど私が今日ここまで生きてこれたのは、血のつながらない人たちが支えてくれたからだ。

仕事を休んでまで、風邪の看病をしてくれた友人がいた。

「実家だと思って、いつでもごはん食べにきてね!」と、娘のように接してくれた友人のお母さんがいた。

家が借りれなくて困っていたら「えりに逃げられてもどうにかするし!」と、保証人になってくれた先輩がいた。

数えきれないほど、いろんな人の笑顔が浮かぶ。

夫もその1人。「家族はいつか離れる」という、ゆがんだ私のフィルターを「家族はいつもそばにいる」に貼りかえてくれた実写版スティッチだ。

いつかお母さんは、教えてくれた。

「恵利の『恵』は、ご縁に恵まれますようにっていう意味だよ。」

名前のとおり、恵まれたよ。沖縄の気候に負けないくらい、あたたかい人に。

別れても好き同士だった、二度と会えないふたりの分も。私は死ぬまで夫婦で生きること、あきらめないよ。

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