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生きている、生かされている

ゲシュタルトを継続していて、よかったなぁと

特に感じていること、それは生きづらさの減少の先に、

「生かされている」という感触を体感したこと。

ゲシュタルトのセッションでは、

自分の気になることをテーマに扱う。

例えば、悩みや考えずにはいられない

頭に浮かぶあれこれ、気になる体の症状や人間関係や

今、浮かぶこと何でも良い。

何も浮かばなかったらそれでもいい。

一つ一つのテーマは

都度異なっていても(同じテーマも扱うのも自由)

日常的には無自覚な自身の奥深い内面の

とある部分に触れる。

その部分に目を向けることは

恐怖を感じたり感情が溢れたり

時にはそんな自分に混乱したり

日常の制御している自分では

開かない部分が露わになるけれど

それによって得る、

今まで見過ごしていた何かへの気づきや

全くの視野外だった視点に気づいたり

セッションの前では見えなかった、

以前から広がっているはずの世界に気づいたりする。

それは、水中から顔を出して、支えに気づいてつかまり

思い切り呼吸ができたの感触に似ている。

セッションのあとはぐったり疲れたりもするけど

その後、これまで気になったり苦手だったことに

すんなり対処できたり、苦になっていないことに

後から気づくことが続いた。

そういった変化が不思議で興味深くて面白くて

回数を重ねていった。

自分の中の未完了に向き合いながら

徐々にそれへのこだわりが薄れてきたある時、

生かされている、という言葉が浮かぶようになった

朝、窓を開けて朝日を浴びたときや

清々しい風に頬を撫でられたとき

寝起きに水を飲んで喉を潤したとき、

暗がりで明かりを見つけて安心を得たときに。

小鳥や虫の声に和んだり、電車に乗って移動していたり、

連綿と受け継がれている歴史に触れたときに

人、動植物、無生物、目に見えない微生物や何か

思い出や過去や未来、他界している存在、

地面や海、地球や、広がっている大きな有機体の場や

その先に広がる宇宙に対して。

言い換えると、自分への拘りや執着が薄れていき、他者と接しやすくなったように感じる。

困っている人や落とし物をした人に声をかけたり

電車で咄嗟に席を譲ったり

見返りや何かの含みなくつい体が動いていた

という自分への執着の減少。

他者との境界線を明確にしていきながらも、

断絶するのではなく、布や糸でうっすら繋がっていて

自分は、世界の中の一部、大きな有機体の中の一部であり繋がっていることを感じた。

そんな感慨を、うまく話せないな、誰かと共有したいな

と思っていたところ、ここ数か月で

共有できる方々や書籍に出会えたりした。

そういったご縁や巡り合わせにも、

生かされているという言葉が浮かぶ。

と、まで記すとスピリチュアルに寄りすぎてるように捉われるかもしれない。

「生かされている」という感触は

ありがとう、というお礼や

対象に対する敬意と言えるように感じる。

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