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ストーリーを享受する弊害について

ここ数日、ストーリーについてよく考えている。人間はなぜストーリーを欲してしまうのか?たった数秒間のインスタのストーリーズですら、そこに時間を感じてそこにある物語を空想する。それに傷ついたり喜んだり何かを知った気になったりする。

(これは小学校からわたしが思い続けている「時間ってヘンだよね!」の延長線の話。前乗りしない限り必ず遅刻をするという天才的に遅刻魔な人間が、相変わらず時間について考察している文章です。適当なこと言ってるな、と思ってください。笑)

どうやらわたしは長年、人をストーリーで見ないようにしてきたらしい。昔から他人と人間の捉え方が違うことはわかってはいたのだが、それをついに自分なりに言葉にすることに成功したので、今日は書いてみようと思う。自分がこのような性格や思考、態度になった経緯としては、昔から多くの人と会話する中で「他人に介入しすぎず、それでもちゃんと話を聞き正確に理解するにはどうしたらいいか?」がテーマとして常に根底にあり、それを解決する手法を探りながら実践の中で独自に(適当に?)模索していた影響が大きいと思われる。最初は自己防衛の一種だった。人間の話をちゃんと聞いてそこに毎回自分の感情を入れ込んでいては、精神が持たない。そこで切り離す手法としてやっていたのが、「境界を張りながら自分の体験ネットワークから同様の構造を引っ張り出して、感覚を想起する。新しく経験したものとして娯楽の如く消費しない。」ということ。この要点は、話を聞く側の到達点はあくまで話の内容理解であって、共感ではないことにある。

わたしから言わせると、共感してると言う人のほとんどは、「新しく経験したものとして自分ごとにし、娯楽の如く消費する」をやっているように見えるし、共感してほしい人は「自分ひとりでそのストーリーを感じるのはなんか不安だから誰かを道連れにしたい、でも否定してくる人はやだ」と言ってるように見える。でも自分が話す側であるとき「わたしの話を聞いてもらえた!」と本当に思えるのは、自分が自分の気持ちを理解できたと思えたときだけなのではないか。それには、共感なんて本来求めてないってか現実問題不可能不成立?だし(人間違うんだからわかるわけねえじゃん)、そんな調子で自分の話を全然理解されそうもない人に勝手に消費されたら憤りすら感じると思う。ほんとうに聞いてもらえたと満足できるときは、相手の中の体験ネットワークにも自分の経験と同じ相似形やアナロジーがあることを直感的に感じられたとき、だと、わたしは経験則で思っている。相手にも同様の構図があるのがみえて確認して正しいレスポンスが返ってきて初めて、自分も「あ〜こういう理屈だったのかわかったすっきり!」となる。これは一種のカタルシスであると言えるのではないか。
自分の話を共感と銘打ち、勝手にストーリーとして消費することの問題点として、話したい本人と聞いてる人間の怒りの論点がズレることにより、それがさらなる被害を呼ぶ可能性もあるということがある。このズレは同じストーリーをそれぞれ別々の価値観に基づいた独自の解釈の中で生き直していて、その都度身勝手に喚き合ってしまうことから生じる。
これ、界隈が界隈なら、地雷踏んでる可能性すらある。すんごい例え悪いけれど、オカズにしてるってことでは?ね?笑 自分が気持ちよくなる解釈を押し付けている。たとえば他人の話がいいものであれ悪いものであれ、「わたしはその案件であれば怒りたい!そういう立場を表明したい!だから今こうして怒ります!ぷんすか!(あんたが何話したいかは知らんけど)」って態度だったりする。まあ、お互いがそれで了承して合意の上でのプレイであればいいんだけど。ただ、わたしが話してる側だったら、上手く理解されてない上あんたが気持ちよくなってるやんw、ってなるのでそれをされるのは個人的には苦手。
というわけで、自己防衛でスタートしたやり方であったが、結果として相手のためにもなる「線引き」の方法だったのだと思う。そうだとしても、これが必ずしも常に正しいわけではない。やっぱり女の子は共感したい生き物だし、嬉しいことがあったときストーリーに沿って自分ごととして喜んでくれる人がいたら嬉しいものだし、愚痴大会のようにただみんな好きにクラブで舞い踊るみたいな発散の仕方があっても良いし、ってわけで、結局、適材適所なんだと思っている。両方できるといいな〜くらいのノリ。できない人はできないことをポジティブに使えばいいし。その場の優先順位で変えられるといいよね。

で、ここからもわかるように、ストーリーの難しいところは、利己的ってところ。それの実態は、価値は、聞き手の中にしかないってところ。良し悪しや重要度が何によって決まるかは、個人の経験に依るところ。恋愛だって、初期にお熱になるのは他人の中に自分好みのストーリーを見たからじゃないですか。多くの人がいいな〜!って感じる映画だって似たようなもの。それだけマジョリティに共感するポイントがあったからで。(良いと感じる理由は多々あるかもしれないけど、ヒット作品はほとんど共感性の刺激にありそうなのでそう言ってます。) それって本当は、実体とかけ離れてるかもしれない。ただ好みの通過点を何個か押さえられてそこをちゃんと通っただけ。つまり、ストーリーの価値はイチ個人の中にしか存在しないということ。

ストーリーはあくまで共感性を刺激する手法にすぎないとすら言える。それは製品や技術を売る時にも利用されるし、個人を売り込むときにもそう。スタバだってそうだし、アイドルとかもそう。無意識のうちにみんなそうやってストーリーでそれらを「理解」した気になっている。でもちゃうねんて。みんな自分の中にあるそれらのイメージに投影したストーリーを愛でているだけなんだ。そこに価値を感じてお金を払っているだけ。そう見てる自分が好きなだけで、そう見てる自分にメリットがあるの。だから、ストーリーが好きなんじゃない。ましてやその企業や他人のほんとうの姿が好きなわけじゃないんだよ。残念なことに。もしかしたら裏でクソみたいな不正やアウトすぎる恋愛してるかもしれないでしょ。そこまで知っても変わらず愛せる人は、すみませんでした。笑

わたしたちはどこの国でも小さい頃からベッドタイムに絵本を読むだとか神話を語られるだとかして、ストーリーに自らを溶け込ませ一体になることで他人と交わったり、その人や文化、死生観を肌触りを持って理解したりということをしてきた。これは、ストーリーで追体験することでしか新しいものに対して自分ごととして捉えられず、脳の回路として開発できない人間の特性なんだと思ってる。もしくは、人間は生きること死ぬことに意味をストーリーというかたちで持たせないと耐えられないのかもしれない。ただ、それだけをし続けていることは、ほんとうの理解から遠のくんじゃないか?というのがわたしがここで言いたいこと。神話がすべて現実でないように。歴史は編纂者によって必ず意図や偏りがあるように(それこそが面白さで、楽しむのは自由であるが)。娯楽として消費するのはいいのだけれど、楽しませるためのものから受けた印象と、事実のかたちは異なるということ。例えば戦争の理解とかにおいては、一度ストーリーで馴染んだあと、もっと原理原則に従って「こうこうこうなって起きました」という構造把握のできる教育をした方がいいんじゃないかと思う。つまり、入り口でストーリーを使うのはいいけど、理解するときには時間を排除した理屈であるべきではないか、それが本質的で根本的な解決に至る唯一の道なんじゃないか、ということ。そんな難しい話じゃなくても、人の噂話にどうも偏りがあるなって感じられるときに「自分が理解するために」質問をしていくのもよい。そこに巻き込まれるのではなくて。何かを語るとき、嘘や思惑が混じるのはみんな誰しも少しはあると思う。無意識だったりするから。というか、それが自然な形だから。わたしは、そもそもこの世に事実なんてものはなくて、視点を変えた解釈しかないという前提を持っている。だからその話を鵜呑みにするのではなく、かといって疑いきるのでもなく、お互いの言語の特性やズレ、盲点を見る的な感じで聞き、各々の視点からの真実を聞ければいいのではないか。

人間は実のところ毎秒変わっている。一貫性などないのがナチュラルな姿だ。関数のグラフみたい。だからこそ、ほんとうに理解したい対象に出会ったら、最初に述べたような「微分するタイプの理解 (境界を張りながら自分の体験ネットワークから同様の構造を引っ張り出して、感覚を想起すること。新しく経験したものとして娯楽の如く消費しないこと。)」を習得するといいんじゃないか。人であれば、その地点での「その人」の精神を輪切りにして空間的に把握するようなイメージ。「その人」という部屋があるとして、どこに何が配置されていて、その家具はどんなモチーフで、全体のトーンはどんな感じで、どんな統一性があるのか、何が壊れているのか、といった感じ。これを状況ごとに見ていって、全体像を掴んでいく。時間経過ごとに適宜修正を入れながら。人だけに限らずね。因果律や身体性を超えていきたい。これこそがほんとうの「今を生きる」ということなのだと思う。過去でも未来でもなく、今に在るということ。たしかにとても根気の要る作業ではあるけれど、このような繊細な理解をしていきたいとわたしは常々思っているわけです。めんどくさいですね。

なんか割と真面目な文章を書きました。そんな気分だったらしいです。嘘です、すみません。いつも真面目でした。笑

どうも〜