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きみがいた”証拠”

ふと顔を上げると、シーリングのファンが心地よい音を立てて回っている。突然がらんとしてしまった部屋。日に日に薄くなっていくおあつらえ向きに付けていたブルガリのパフュームの香り。色褪せていく絵画。部屋の隅の溜まっていく埃、塵屑。スーツケースの置いてあった跡。そこに「ひと」が存在していたことを証明するかのごとく部屋が語り掛けている。だが当の本人はそんな会話はしたくないらしく、だんまりを決め込んだまま、見えない何かとにらめっこを続けている。おそらく、これが彼女にとって決別の儀式なのであろう。ただ、天井から見下ろしている僕は、残酷にもきっと彼女が明日にでも吹っ切れて、また何事もなかったかのように歩き出すことを知っていた。それが一番の皮肉であった。僕とは一日の処理速度が違うらしかった。すると、彼女が何かを始めた。しばらく見ていると、昔伊勢丹でおそろいで買ったネックレスを掌の上に広げだした。目線から察するに、押し入れの奥にしまい込むか捨てるか迷っているようだ。次の瞬間、彼女は予想外の行動に出た。なんの躊躇もなさそうに陽がきれいに当たる場所にネックレスを置いたのだ、そして、パシャ、パシャ。スマホのシャッター音が鳴る。嗚呼。そうか。なるほど。こうして僕たちの思い出の断捨離は、驚くほど早く進んでいくのだ。ひどく胸が痛い。僕たちが昨日交わした会話はいったい何だったのだろうか、昨日までのことは幻だったのだろうか。ここまで来た道を思い出し、さらに途方にくれる。この能力を使ってしまったことを心から悔やみ、今にでも飛び出したい思いであったが、僕にできたのは腕に提げた菓子折りを見つめ、ただもう片方の手に握る花束のつかむ指を強めることだけだった。



どうも〜