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躁鬱大学、おもしろすぎる

今日も今日とてわたしの話。

体感として、この躁鬱人にかなり近い。ちなみにかなり近い、として若干のあそびを加えているのは、まだ完全には認めたくないというわたしの無意味な抵抗である。だが、こういう微妙な誰得と言いたくなるようなツッコミを入れたくなるあたり、紛れもなく躁鬱人である。そんなことはわかっている。認めたくない自分を誇示することにより、まだ俗世に足を突っ込んでますよアピールをしているのかもしれない。やはりこの種の人間はめんどくさい。

そして、自分の傾向である「話があっちへふらふら、こっちはふらふら」であるが、他人がそれをやっているのをみるとやはり謎の気持ち悪さ、ぬるさがある。このnote上においても何度かわたしは他人をみて「ぬるい」と表現するのだが、それはおそらく同種を見つけたときの同族嫌悪とひとりではない安心感がまぜこぜになった不思議な感情を表したものである。この人の改行をしないでひたすら喋り続けるような文体スタイル、そっくりすぎて若干引いた。なぜこれをやりたくなるのか分からない。たぶん、思考をなるべく文字にしようとするも、何もまとまってないのを一言一句そのまま書き下ろすことになってしまうので、途切れも構造もなくこうなってしまうのだと推測する。やはり気持ち悪い。自分的にはまとまってるんだけどね。

ちなみにこれが他の人と一致するかは知らないが、わたしの「好き」は基本的に局部的なのと、論理構造を持たないので、ディズニーの曲が好きだからといって、ディズニーの映画を見たりはしない。あくまで曲が好きなだけなので、それ以外に興味のわく理由がない限り、映画というのはわたしの中では不連続なものとして存在している。エド・シーランの曲を全曲聴き込んでいるからといって、コンサートに行ったりはしない。けれどコンサートに行かないと人に言っているうちに、その自分がめんどくさくなってひとりで海外までコンサートのためだけに行ったりする。毎日見ている好きなYouTuberがテレビに出て自分の好きな芸能人と共演すること知って、その知らせだけで号泣するも、余裕でその放送を見忘れたりする。要は気分で生きているのだ。わたしにとって、たぶん事実はそこまで重要じゃない。自分の脳と身体にどんな感覚を与えたか、そのファーストインプレッションで直感的に決まってしまう。だからとても説明しずらい。なんせ、自分でもあまりわかっていない。今日の自分と明日の自分は連続していない。というか、毎秒生まれ変わってるんじゃないか、とすら思っている。こんなんだから、社会で生きていくとなると、大変だ。昨日オッケーした自分に責任が持てない。今日のわたしはやりたくないのだから。こういう人間はルーティン化した職場にいるべきでない。本人もまわりも得をしない。だから最近では最低限の約束をなるべく直近にして重りをつけすぎないように生きている。まあ、こんな人間もいるというわけでね。毎日心許せる一人か二人と、あとはネット上でゆるい絡みができれば、本当に不満はないんですよね。というかそれ以上の深さや濃さは、むしろ逆効果なわけで。だれのこともきらいなわけではないんです、ただ距離感が人より遠いのかもしれない。近づきすぎると刺激や情報量が多すぎるからそれくらいでいいんです。さて、ここらで今日の日記とします、わたしができるのはわたしの一例を事細かに書き表すことくらいなのでね。またね〜

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