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#7 三つめの月

 日本に戻ったらあっという間に仕事モード、というか、全く違う生活。キョンはどこへやら。日本にいるならいるでこちらでもおいしいものを食べたいので、せめて近所の漁師さんのところで生のメカブを買ってきて、鶏をゆでた汁でスープをつくった。昨日は友人の家で、彼女が畑でとってきたクレソンを手づかみでばくばく食べた。ホトケノザが時々混ざっている。雑草も時々混ざってるけど区別がつかなくて、むしゃむしゃしていると「それ雑草だよ」と時々指摘される。途中からまた別の友人が仕事の後やってきて、お土産に七里ヶ浜でとってきたというわかめを分けてくれて、帰りの電車の中ではさんまも分けてくれた。友人の家では八海山のみりん(!)というのもいただいて、みりんをお猪口でそのまま飲んで、これはデザートワインだねとはしゃいだ。

 土曜日の夜は1ヶ月ぶりにライブ。成城。雨で寒いのでダウンを着て行く。もう少し若い頃は3月下旬にもなってダウンだなんて絶対に着なかったが、そういう意地がどんどんなくなっていく。ユニクロのダウンでほくほくして向かう。先週台北は30度越えだったらしい。
 ライブはフルートとピアノと歌という編成で、ジャズのスタンダード曲、ブラジルの曲、私のオリジナル曲、台湾原住民族プユマ族の民謡など、そして今回の個人的目玉としてタイヤル語の曲をいくつか歌った。自分で弾き語りでは時々演奏するけど、ミュージシャン、しかも日本人のミュージシャンに一緒に演奏してもらうのは、私にとって今でもやはり特別なことだ。私の周りのミュージシャンって、歌詞がタイヤル語だろうが宇宙語だろうが、別に音楽さえよければなんだって構わない、という感じの人たちがほとんどなので、かえって気楽というか、日本で音楽活動はじめて8年くらいになるけれど、今も時々、みんなに譜面を渡す時とか、曲のことを説明する時とか、チラリと、元植民者の末裔たち、、、と頭をよぎる。チラリと思って、そういう話でもないか、とすぐに思い直したりして、そしてすぐに忘れるけど、私の共演者たちも、元支配・統治した台湾の原住民の末裔が私に譜面を、、、とか思うんだろうか。でも私は末裔っていうよりもっと現役の気分だ。そして私はまた勝手に、やった方は忘れるけどやられた方は忘れないっていうやつ、などとチラリと思って、そしてまたすぐに忘れる。私たち原住民も日本人の首はたくさん狩ったから、まあいいし、今一緒に音楽で関わっているみんなのことが好きなので、チラリと思うくらい何も大したことはない。でももしタイヤルが日本人の首をたくさん狩っていなかったら、私はもしかしてもっと日本人を恨んでたかもしれない。私も半分日本人だというのに。こういう私のアイデンティティの葛藤のある部分は、首狩りでトントンになっている。

成城の駅前の桜。


 土曜タイヤル語で歌ったの歌のひとつは、アントニオ・カルロス・ジョビンの「三月の水(Águas de Março)」をタイヤル語訳にしたもので、去年11月、日系ブラジル人のギタリストの友人と共演することになった時、「あ、今だ!」と、思い切って翻訳にとりかかることにした。三月の水はこの世で一番好きな曲かもしれないくらい好きな曲で、これをタイヤル語で歌ったら絶対にいい、と思ったのは、まだ20代で東京で大学院に行っていて、研究者になろうかと思って迷走していた頃だった。ライブなんてしたこともなかったし、まさかこうやって日本で歌の仕事をすることになるとは思ってもいなかったし、ましてや日本で台湾原住民の歌をうたう仕事だなんて、そんな仕事が世の中にあり得ると想像したことすらなかった。あの時は確かちょうど母が日本に遊びに来ていて、あれこれ質問しながら、1番の歌詞の途中までちょっとだけ試しに訳して歌ってみて、やっぱりいいじゃん!と確信して、うれしかった。しかし歌詞が素晴らしいのだけれどとても長くて(しかもくり返しがほとんどない)、私のタイヤル語レベルでは、母の協力を得ながら終わりまで訳し切るほどの気力が続かず、メロディも何も複雑じゃないはずなのに難しく、英語でもいまいちうまく歌えなかった。でもあれからずっと、自分にだけ、シャワーの中で、洗い物をしながら、夜の帰り道、なんかふとした時、1番の途中までだけの、短いタイヤル語の三月の水を、20代後半の私も、30代の私も、40代の私も、15年くらいずっと自分で自分にだけ歌ってきた。あまりにも大事なものができてしまって、15年くらい誰にも聴かせられなかった。

 台北の家は、私が生まれる前からとにかく来客が多いというか、親戚友人の出入りが常にあって、とにかくいろんな人が来る。去年11月に帰った時も、私のいとこ夫婦が来ていて、その後に私の友人も日本から子連れで遊びに来たので、きっとあの家はそういう風水というか、お客さんが入っているのが家として一番いい状態なんだろう。1週間ちょっとの間に、母と二人になる時間をなんとか見つけて、最後の日、空港に向かう前までになんとか翻訳を終わらせなくてはいけなかった。三年前のコロナの間も、たっぷり時間があるのだから翻訳してみようかと思っていた。翻訳の前に、まず原曲ともっと親しくなりたいから、最初に英語で覚えて、せっかくだからポルトガル語でも、自分でコード弾いて歌えるくらいになりたいな、と、全部の歌詞とコードをメモしたノートが机の中から出てきた。あんなに大好きな歌詞なのに、あの時、歌っても歌っても全然覚えられなかった。そういう精神状態じゃなかったんだろう。英語はおろか、ポルトガル語になど全くもってたどり着けず、単調なメロディのせいで、歌えば歌うほどまるで念仏の苦行みたいになってきて、翻訳どころか歌の練習さえやめてしまった。それでもなんとか、20代の大学院生の私と、コロナの間の私と、バトンをつないで、去年11月の私はママとリビングで隣り合って座った。

 「ママ、棒切れって我們 Tayal 的話なんていうの?」
 「ぼきれ? 什麼是ぼきれ」
 「ぼう。就是隨便的一條ぼう啊。木の枝とかさ、也不是棍子、なんでもいいけど、細長い、こんくらいの、そのへんに転がってるじゃん」
 「ああ、棒! 棒。そうねえ。おばあちゃん『棒』って言ってたよ。日文也可以通啊。日本語わかるから」
 「おばあちゃんじゃなくて、我跟你講我要把這整個歌詞翻譯成我們 Tayal 的話啦。這樣才有感覺嗎。我不是要唱日文」
 「そうねえ。Tayal ねえ。ああ! カラウ、カラウだよ。木の棒とかね?」
 「そうそうそうそう」
 こんな感じでひとつひとつ、ずっとやった。

 A stick.

 A stone.

 It's the end of the road.
 It's a sliver of glass.

 それは人生。
 それは太陽。
 それは夜。
 それは死。
 それは罠。
 それは銃。

 カラウが転がってて、ブトゥヌフも転がってて、もうリャニャックがそこで終わってるんだよ、行き止まり你不能在過去。ガラスが割れた、破片、あるでしょ、割れた。それもあって。
 それはババウナヘイヤル。それはワギ。

 私は、まだ外が暗いうち、道の終わりに車を停め、おでこの上にヘッドライトを装着し、山の中へ入り、狩りに行くユタス・マシン、ママ・ハユン、ママ・ワタン、アション、アティ、四季や環山や南投の親戚の男の人たちを想像する。
 それはヘルンガン。それはムヌキル。
 カツァガ、ラハッ。
 カツァガ、パトゥス。

 「三月ってなんていうの? 三月なんてある?」
 「ないよそんなの。サンガツって言うよ」
 「でも今、学校で母語教えてるんだから、なんかあるんじゃない? ちゃんとそれらしくタイヤル語に直してつくってさ、絶対教科書に載せてるよ」
 「でもママ、教科書なんか使ったことないもん」
 と母が言って、そうだよねえ、と私も笑う。そっか、じゃあ教科書見ればいいんだ、と、私は部屋からノートパソコンを持ってきて、母の隣に戻って座り、「族語E樂園」というウェブサイトの中の四季タイヤル語のページに行く。このサイトには原住民諸語のオンライン教材があって、小学校から高校レベル、公務員用の教材(!)まで、発音も聞けるしなかなか充実しているのでしょっちゅうのぞきに行く。検索欄に「三月」と入れると、用例が全部で三つ、中上級・上級レベルテキストへのリンクが出てくる。第29課、収穫祭。テキスト中の覚えるべき単語18個目。

tyugan byaling 三月

 3つの月。月が3つ。
 「ああ、そのままそうしたんだねえ」
 と母が言う。発音のボタンを押すと女の人の声で「テュガン ビャリン」と言う。
 「これ誰かね、若い人だね。あの人の子どもかね。もう一回やって」
 と母が言う。四季タイヤル語は、四季部落でしか話さないので、発音の例の音声は、全部、部落に住んでる知ってる誰かがマイクの前で話している声だ。発音している本人を知らなくても、親をたどれば誰かわかる。
 qsya na tyugan byaling.  
 3つの月の水。もしかしたら月は3つ見えるのかもしれない。空の月と、川の水面に映った月と、あとひとつ。月がどこかに映っていれば。

 私はおばあちゃんのことを話すアイーのことを思い出している。
 「昔、みんなたき火してるでしょ。エリのおばあちゃん、肌がとても白くてつるつるしてたから、火の前で、寒いからこうやって脛を出してあたためてね、そうしたらエリのおばあちゃんの脛に、たき火の火が、鏡みたいに反射して映ってね」

 三つめの月。
 夜、おばあちゃんの白い脛に映った月を私は想像している。
 And the river bank talks of the waters of March.
 川岸が、川べりが、話をしている。三月の水のこと。3つの月の、空の上の、川の水面の、おばあちゃんの脛の、それぞれの月の、水のこと。雨のこと。
 Syax na gong kmayal qsya na tyugan byaling.
 それはつらい日々の終わり。心の喜び。
 心の喜び。
 ムカス。ムカス。ムカス。


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