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浦島太郎に助けられ、彼に恋した亀の告白(短編小説)

 突然ですが皆さんは、浦島太郎という若者をご存知でしょうか。そう、いじめられていた亀を助けたお礼にと竜宮城へ連れて行かれ、楽しい時を過ごし、帰ってから玉手箱を開けると、おじいさんになってしまったという、浦島太郎です。まだまだ皆さんの生まれる兆しすら見えていないような、そういう昔々の話で御座います。かれこれ五百年も前になるでしょうか。
 その頃、私はこんな年寄りの亀では御座いませんでした。彼に初めてお会いした時、私は人間で言うと二十歳、まだまだ幼いといっても言いような、青年の亀でした。これからお話致しますのは、あの時私が犯した罪についてで御座います。哀れで愚かな亀の、罪の自白で御座います。皆さんにとってはもう過ぎた昔話でしかないのでしょう。けれど、私のことを少しでも哀れんでくださるなら――いいえ、哀れみなど要りません、私のような罪深い亀には――ええ、もう、ただの与太話と思って、どうか聞いてください。あなた方は、陪審員です。裁判官です。どうぞ私の罪に耳を傾け、思い思いの判決を下してください。
 乙姫様、ああ乙姫様。そんな憐れみ深い眼で、どうぞ私を見ないで下さい。私の罪は、他ならぬ貴方様のために起こったものなのですから。今まで私が五百年余りもの間、ひたすらに罪を隠し、貴方様に仕えていたのは、貴方様に対する償いのつもりで御座いました。けれどもう、私の老いさらばえた頭では、この秘密を閉じ込めておくことは到底出来そうもありません。やがて記憶も薄れて、自分自身の罪を忘却の彼方へと追いやり、なかったことにしてしまうのは、恐ろしいのです。ですからもう、私のことを『可愛い亀や』などと呼ぶのは止めてください。私は、ただの亀です。それも、貴方様に仕える亀ではありません、ただの亀なので御座います。……前置きはこれまでにしておきましょう。それでは、話を続けさせて頂きます。
 情けないことではありますが、私が子供らにいじめられていたというのは、本当のことで御座います。人間の子供というのは空恐ろしいものでして、こちらが陸の上では自由が利かない体をしているのを良いことに、やれ右足を引込めろ、次は頭を狙うぞなどと、棒切れを振り回して私を追い立てるので御座います。あの時、私は主人である乙姫様のお使いで、陸にしか生えない植物を採りに来ていたのですが、ああまさか人間の子供があんなにも恐ろしい生き物だとは、ついぞ知りませんでした。何しろ私は、生まれこそ陸でありましたが、育ったのは竜宮城、乙姫様に仕えることだけが喜びの、海の外を知らない亀だったのですから。
 私が陸に上がってから少しして、海辺に大人しく座っていた数人の子供らが、棒切れをいたずらに動かしながら、私をいじめにやってきました。私は、人間の子供など見るのも初めてでしたので、好奇心から、逃げずにじっと彼らを見つめていました。思えばそれが、禍を招いたのかもしれません。
 おいこの亀、おいら達を見てるぞ、と一人が言いました。アア本当だ、いやだいやだ、気持ち悪い、と他の誰かが言いました。そうしてしばらくヤイヤイ言っている内に、彼らの中の暗黙の取り決めによって、私への迫害は始まりました。嗚呼痛い、嫌だ、助けてください、お願いです。私の声――最も彼らにとって私の声など、ただの呼吸音でしかなかったでしょうが――は、彼らの嗜虐心を煽るだけでした。ただもう楽しそうに、子供らは私を棒で打ち据えました。ほら、そのときの傷がまだここに。え、見えない? そうですか、私にははっきり見えるのですが。
 この傷を付けられた、正にその時でした。浦島太郎殿が、私を助けてくださったのです。皆さんは、何と伝え聞いているでしょうね。私と引き換えにお金か何かと交換してくださったとかいう風に聞いている方もいらっしゃるかもしれません。けれど、実際にはそういう優しいものではありませんでした。浦島殿は、私を助けるために、目には目を方式に則って力を行使なさったのです。あまりこんなことを長々と喋りたてるのもなんですから、手早く言ってしまいましょう。彼は子供らを、文字通り蹴散らしてくださったのです。
 あの時の浦島殿の、なんと勇猛、果敢だったことでしょう。ああ、その時の彼を思い浮かべるだけで、私は胸が高鳴るのを覚えます。今でこそ児童虐待などと騒がれてしまいますが、あの頃の悪餓鬼ときたら、それくらいはしなければいけなかったのです、本当です。
 もしもし亀さん、子供達は追っ払ってあげましたよ。
 彼はにっこりと私に微笑みかけ、そう言いました。その微笑の、暖かかったことと言ったら! 私はただもう目眩しそうになるのを抑えて、呼吸を整えるのに必死でした。けれどその様子が、彼の目には息も絶え絶え、臨終間近、といった風に見えたのでしょう。彼はそのまま、私を家へと抱いて帰ってくださったのです。彼は二十を少し過ぎた年齢だったかと思いますが、今考えてもなんという好男子だったことでしょう。彼の腕の中で私は、助けていただいた感謝と喜びで、涙を流さんばかりでした。
 家に着いてからも、彼は私に様々の介抱をして下さいました。傷口には清潔な布を巻き、艶があって自慢だった甲羅についていた大小の傷も、優しく撫でて下さいました。本当に、感謝してもし足りないような、そういう多大な恩を受けた私は、数日後、彼の手によって、海へと帰ることが出来たのです。
 竜宮城は、美しいところです。そこには、醜いものなど見当たりません。乙姫様は城で唯一人間の形を取っていらっしゃいましたが、竜宮城に住む魚たちはみなその気になれば、人間に化けるくらい、簡単なことでした。ただ、化けなければいけない必然性などなかったため、乙姫様以外は皆、様々な魚類の形で満足でした。私も、その中の一員でした――浦島殿にお会いするまでは。
 浦島太郎殿。
 私は竜宮城に帰ってきてからというもの、彼の笑顔だけを何度も反芻し、ため息をつきつつ暮らしておりました。命を助けていただいたことによる感謝の念。けれど、それだけではありませんでした。彼の元で過ごした数日間のうちに知ることが出来た、彼の色々な表情、仕草、そういった何もかもが、私の甲羅の中の胸を、締め付けて仕方ないのでした。
 私は何度か、自分の感情を疑ってかかってみました。これは本当に、そういった種類の感情なのか? 感謝と尊敬の念を、愛情と勘違いしているだけなのではないか? しかし、何度自問自答を繰り返しても、答えは同じでした。彼のことを考えるたびに感じる鼓動の高まりは、どう考えてみても、恋慕の情でしかなかったのです。
 人間になったら……? 人間の姿で彼に会って――ああでも、私は人間になっても男のままです。それでは、彼は気味悪がって私のことを嫌ってしまうかも分かりません。ああ、種族の壁だけでなく、性別の壁まであるなんて。
 乙姫様はお優しい方で、私が収穫もなく怪我だけして帰ってきても、何のお咎めもせず、ただ傷を労わって下さいました。美しい、優しい、乙姫様。私はそれまで、何度、この方になら命を捧げても悔いはないと心に誓っていたことでしょう。けれど、浦島殿とお会いしてからは、その心の中での密かな誓いさえ、呟くことを忘れてしまいました。それどころか、乙姫様を今までとは違った視線で持って見ることさえするようになりました。それは、こういう方となら、浦島殿も釣り合うのであろうな、という、嫉妬と諦めの入り混じった、汚らわしい視線です。純粋で無邪気な乙姫様に、そんな邪な私が仕えていたなどと、今となっては信じがたいことで御座いますが、けれどその当時は、私も若かったし、乙姫様も更に若かった。つまりは、そういうことなので御座います。
 さて、そのお優しい乙姫様は、私を助けてくださったその恩人とやらにお礼をせねばならぬと仰いました。私は、また彼に会えるという、それだけに歓喜し、これも現金なことですが、乙姫様に心からの謝辞を述べました。乙姫様はいつものように優雅に笑い、これこれ亀や、お前が直接迎えに参じれば良かろう、と、私を彼の案内役にして下さったのでした。ああ今考えても、乙姫様は何と心の清いお方だったことでしょうか。それに比べて汚い、汚れきった心の、私。
 ともかく、私は喜び勇んで、再び陸に上がりました。今度は大層用心して、子供らがいない夕暮れ時を狙いました。果たして浦島殿は、漁の帰りだったのでしょう、私の待つ海辺へとやって来ました。そこで、私を発見してくださったのです。
 おやおや亀よ、またこんなところにいては、あの悪い子供らに、いたずらをされてしまうよ。
 なんてお優しいお言葉でしょう。私は涙ぐみながら、必死に練習していた台詞を、ゆっくりと発しました。
 浦島太郎殿、いつか私を助けてくださったお礼に、竜宮城へとご案内して差し上げとう御座います。
 彼は驚きましたが、私が竜宮城の素晴らしさを逐一説明して差し上げると、やがて心を決めたご様子で、肯きました。そういう次第で、私は彼を背中に乗せ、竜宮城へと向かいました。彼は海の中で、しっかりと私の甲羅にしがみついておりました。今なら彼を連れ去ってしまうこともできる、と一瞬悪い考えが頭をよぎりましたが、実行することは流石にせず、私は竜宮城まで彼をお連れしました。
 乙姫様は、わざわざ城の前まで彼をお迎えにいらっしゃいました。その時の、浦島殿の表情といったら。ぽかんと口を開けて、きらびやかな衣装に身を包んだ乙姫様を、穴の開くほど見つめておりました。私はどれだけ、後悔したことでしょう。乙姫様に会えば、人間の男なら誰でもそうなることは、分かっておりましたのに。ああ、悔しい悔しい。私が女だったなら、人間の女だったなら、これ程までに乙姫様を憎く思うこともなかったでしょうに。ああ、乙姫様が羨ましい。恨めしい。妬ましい。私は浦島殿のすぐ隣に控えていたにも関わらず、乙姫様がお姿をお見せになったときから、彼に声を掛ける機会を逸してしまいました。
 ようこそ竜宮城へ、と乙姫様は鈴の声で言います。そして、彼の手を握って城の中へと案内なさいました。亀の私では、彼の手を握ることさえ、出来ない。急に自分がみすぼらしい存在に思えてきて、それまでの高揚した気持ちは、すっかり息を潜めてしまいました。私はただの亀でした。乙姫様に仕えるだけの、ただの亀だったのです。それが、あろうことか人間の男に恋をして。ああ身の程知らずのばか者め、なんて侘しい自分だろう、と、その夜の宴会の裏で、私はひっそりと泣いておりました。
 浦島殿は、乙姫様に夢中のご様子でした。お優しく、お美しい、人間の形をした乙姫様に。乙姫様はと言うと、相変わらずの優美な笑顔で彼とお話なさっていましたが、彼に特別な感情を抱いているようには見受けられませんでした。それだけが、私の救いであり、また乙姫様に対する敵対心の原因でもありました。思えばその頃から、私は竜宮城にいて良い存在ではなくなっていたようです。醜い心の持ち主は、あんなに清浄で美しい城の中にはいてはいけませんでした。にも関わらず、図々しくも卑しい心根の私は、何とかして彼に気に入られよう、好かれよう、それが無理ならせめて親しくなりたい、とありとあらゆる手を尽くしていました。しかし、そんな私の努力も空しく、彼の乙姫様に対する態度は変りませんでした。私は、悲しみに沈みました。
 これというのも、乙姫様があんなに美しいのが悪いのだ。いつしか私の心の中に、そういう歪んだ考えが巣食っていました。自分が使える主人にこのような考えを抱いてしまった時点で、私は竜宮城を去るべきだったのでしょう。けれど私は城を出ず、乙姫様を陥れる手段を考えました。そこで思い浮かんだのが、乙姫様が使用なさっている化粧箱のすり替えでした。
 乙姫様は、ある特別な化粧道具を持っていらっしゃいました。それを使うと、乙姫様の生来の美しさを、そのままで保つことができるのです。乙姫様はその道具を入れた化粧箱を、大事に宝物庫に閉まっております。夜になると使いのものに命じて取り出し、ご使用なさるのです。私はその化粧箱を宝物庫の奥に隠し、代わりの箱を置いておきました。それを開ければ、乙姫様はたちまちご老人。……そう、これが玉手箱でした。
 賢い皆様ならもうお分かりでしょう。急に地上の様子が気になり、一旦陸に上がらせてくれと言い出した浦島殿に、乙姫様は何を思ったか、その玉手箱を渡しておしまいになったのです。私が取り替えておいた、あの玉手箱を!
 ――私の罪は、以上です。乙姫様、それに浦島殿には大変申し訳ないことをしたと思っております。けれど、地上に戻った浦島殿も、誰一人知る者のいない村で長い間生きていくよりは、さっさとお爺さんになってしまい、短い余生を気楽に過ごしたほうが、良かったのではないかと、今では思うのです。これは、決して変な負け惜しみや捨て台詞ではありません。私は本気で、そう思っているのです。皆さん、どうぞ私をお哂いになってください。愚かな恋をして計略を練り、自らの首を絞めたこの馬鹿な亀を。若かった頃の彼の面影も、今ではもう薄れてしまいました。
 ああ、申し訳ありませんでした、乙姫様。私は海の底に潜り、二度と貴方のお目にはかかりません。
 さようなら。


《10年ほど前の短編です。太宰治を読んでいた時期に書いたのが、見るからに丸分かりです。結構気に入っています。note掲載にあたり改題しました。前の題は「五百年告白」でした。》

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