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コチョウラン(誕生花ss)

 男は、高くまで登りすぎた。 
 気がつけば、自分以外の人間と出逢うことも稀なほどの高度に到達してしまっていた。時の流れに打ち捨てられた超硬度コンクリート製の階層都市、その最上階は、あっけない程、何も無かった。
 下層の大気汚染も届かないほどの高層なら、きっとまだ文明社会を維持している人間がいる筈だ、という憶測も虚しく、ただ空に向かって組まれた足場だけが残されていた。誰もいない。
 戻ることも考えた。だが、ここまでの長い道のりで疲弊しきった身体と心は、元来た道を戻ることを拒否していた。
 もう、無理だ。動けない。
 自分の長い旅も、生きる目的も、その生さえも、ここまでなのだ。食糧も尽きかけているし、これ以上、何か出来る気はしない。
 絶望の中、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。起き上がった男の目に、眠る前までは確かに無かったはずの物体が映った。軽荷用の、小型気球だった。まだ社会が賑やかで、荷物のやり取りが活発だった頃にはよく使われていた配送手段だ。ここまで来る間にも、男は似たような物を目にすることがあった。しかし、その大部分は燃料の調節が上手くいかなかったのか、途中で落下してしまったり、ぐんぐん上昇を続けてあらぬ方向へ飛んで行ったりしてしまっていたので、こんな風に無事に止まっているのを見たのは、初めてだった。
 しかし、どうせ大したものは入っていないだろう。期待するだけ無駄だ。男はじっと動かずに思いを巡らせた。下手な期待は毒だ。それが裏切られた時、自分はきっと今度こそ、残された足場から身を投げ打ってしまうだろう……。
 そう思いながらも、やはり好奇心には勝てなかった。男は恐る恐るバスケット程の大きさの気球に近づき、中を覗き込み、思わず息を止めた。
 中には、小さな子どもが丸くなって眠っていた。
 男は暫くの間、肩で息をして子どもを見つめていたが、やがてその顔に、温かな笑みを浮かべた。子どもの繊細な髪をそっと撫で、眠りを覚まさないように注意して抱き上げた。眠る前まで、いや、今の今まで消えかけていた希望と情熱とが、再び彼を奮い立たせた。
 腕の中に小さな命を抱えて、男はゆっくりと歩き出した。


 花言葉「幸福が飛んでくる」。
 

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