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世界の終わりの海辺にて(短編小説)

 君が君であるために唯一の何かが欲しい?
 それは実に不可解な要求だ、何故なら君はこの世界自身であり、君自体が一つの、唯一にして全なるものなのだからね。
 これが夢だと思うかい。
 眼が覚めれば消えてしまうような、そういう夢だと、君は思うのかい。
 それでも君は君自身だ。君は唯一にして全、神と同義の存在なんだ。世界のすべては、君なんだ。
 分かるかい。
 世界は、君でできているんだよ。
 世界は、君でできているんだ。


「アイデンティティの崩壊の危機」
 彼女は、そっと呟いた。
「え? なに?」
 僕は、聞き返す。
「アイデンティティの崩壊の危機」
「それを言うなら、拡散の危機じゃないのか」
「そうとも言う」
 少女。
 彼女は、そう呼んでも一向差し支えないような年齢だ。少なくとも、僕にとっては。
「それが、どうかしたのかい」
 僕が聞いても、彼女は言葉を返してはくれなかった。ただじっと、僕らの座る海辺から見える範囲の全てを、その眼に収めていた。
「少女はただ海辺に佇む、か」
「訂正が必要だよ。少女と少年、その他大勢の人々はただ、海辺に佇む、でしょう」
 少女は僕の言葉尻を捕らえて、そう言った。にこりともしない、少女。
 陽光に、彼女の決して長いとは言い切れない黒髪がなびいた。潮風が海の匂いを、遠く離れた街のどこか腐りきったような匂いのする場所へ、律儀に運んでいく。かもめはその後を滑空してついていく。波が、風と入れ違いに、僕らの足元へ貝殻を置いていく。
「世界は、何でできているんだろう」
 彼女は、今度ははっきりと呟いた。
「さあ、……原始と分子と、その他色々な構成要素でできているんじゃないのかな」
 僕は潮風のように律儀に答える。しかし、少女からの返答は無い。
「それとも君はそう思わないの?」
 僕は聞いてみる。やはり、返答はなかった。
「自分が本当に自分であるという証拠は、どこにあるのかな」
 彼女は、またそう呟いた。
「さあ、ね。そんなこと、知ってる人、いるのかな」
「じゃあ、君は如何思う?」
「僕かい」
 僕は不意に、心の中のどこかにある海が渦を巻いて、地中深く吸い込まれていくような気がした。その渦の中で、僕と少女はもがいていた。その足掻きは何の進展ももたらさないし、何の停滞ももたらさない。ただ、吸い込まれていく。
 僕は地中で、声を出さないで泣いている。少女の姿が見つからなくて、泣いているのだ。
「どうしたの?」
 少女が、気遣わしそうに僕の顔を覗き込んでいる。一瞬の白昼夢から抜け出して、僕は微笑んだ。
「どうもしないよ」
 世界の終わりの海辺。
 そこに佇む、僕と彼女と、その他大勢の人々。皆、何を求めているのだろう。
「僕は、僕が僕自身であると、知っている。だから、それを疑わないようにしているだけだよ」
「いつ、君はそのことを知ったの?」
「生まれたときに」
 誕生は消滅の始まり。
 人は海から生まれ、海に還るんだ。大地に埋められても、流れ流れて海へ行き着く。それを分かっているから、人は海を畏れ、敬い、慕う。
 だから、海辺はいつでも、世界の終わり。
「僕は、生まれたときから、此処を知っていたよ」
「私も、きっと、知っていたんだと思う」
 少女は微かに肯いた。
「私は、きっと、私自身なんだろうね」
 世界が終わる、その瞬間が近づく。海辺は決して変わらずに、僕らの身体を待っている。僕らは目まぐるしく自身のあり方を変更しながら、海に還る時を待っている。決して交わらない生と死が、初めて、そして最後に交じり合うその場所へ、還る時を待っている。
「私も、他の人も、勿論君だって、世界が終わる時を知らないんだ」
「そうだね」
「ここが世界の終わりだって事は分かってるのにね」
「そうだね」
 世界は、いつか終わる。
 でも、どこからが終わりで、どこからが始まりなんだろう。海から全てが始まって、海で全てが終わるのなら。
 意識の混濁のよう。
 今は夢なのか。現実なのか。
「夢の終わりは、一つの世界の消滅だよね」
 少女はそう言った。立ち上がる気配はない。
「ねえ」
 そして、立ち上がった僕を、眩しそうに見上げた。
「この世界は、誰かの夢なのかな」
 僕は、自分の中に、その問いに対する答えが用意されていないことに気づく。地中深くに佇む僕は、少女の歌声を聞いている。
 海のように深遠で、海のように鮮やかで。海のように真っ青で、海のように厳しい、そういう歌声を頼りに、彼女を探している僕。
 他に誰もいないんだ。僕と、少女の他には、誰も。
「この世界は、きっともうすぐ終わるよ」
 僕は、ようやくそれだけ言った。
「この世界を夢見ている誰かが、そろそろ眼を覚ますんだ」
 少女は、僕の言葉に、微かな身じろぎで反応を示した。
 海辺は静かだ。僕と、少女と、その他大勢の人々が、ただ、ただただただ、凪いだ水面を、じっと見つめている。世界中の人々が、ただただ静かに、その時を待っている。
「ねえ」
 少女は立ち上がって、僕に問う。
「この夢は、一体誰のもの?」
 僕は彼女に微笑んで、そっとその手を握る。
「ここに集まった、すべての人のものさ」
 少女は無言で、まばたきをした。そして、ふっと微笑んだ。
 地中深くで、僕は彼女を抱き寄せる。

 そうして、一つの世界が、消滅した。


《10年ほど前に書いた、短編小説です。小説と言うべきか、散文と言うべきか迷いますが……。夢というものが終わる時、そこに生きていたものはどうなるのだろう、と思って書いたような気がします。今も、時々抱く疑問です。》

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