アジュガ(誕生花ss)

 帰宅してすぐ、居間にある大きな鏡の前へ行く。手洗いうがい、着替えをする暇も惜しんで、家の中の何も見ないで、鏡にダイブする。
「おかえり。今日は部活、遅かったのね。お疲れ様」
 髪の分け目と利き手が反対のママが、にっこり笑う。間取りも家具の配置も何もかもが本来とは真逆の家は、妙なことに、私にはとても心地良い。
「今日はヒトエの好きな肉じゃがだぞ」
 本来なら料理なんて何もできないパパが、台所から顔を出す。やはり利き手ではない方の手で、調味料を握っている。
 全てが逆さまのママとパパと、テーブルを囲む。にこやかな団欒。心安らぐひととき。通り抜けてきた鏡を振り向き見ると、ひとりきりで暗い部屋に座る自分自身が、こちらを見ている。鏡の向こうのテーブルには、鏡の向こうの私が用意したのであろう出来合いの惣菜が並び、その足元には、ママとパパが開けた大量のお酒の瓶と缶が転がっている。本来は自分もあの中で食事していた、筈だった。
「勉強の方はどうなんだ」
「分からないところは何でもママに聞いてね」
 逆さまのママとパパが優しく言ってくれ、私は幸福に泣きそうになる。
 やがて食事を終え、パパが食器を洗い、ママが仕事の準備を始めると、私はそっと、鏡に手を伸ばした。鏡の向こうの私も同じように手を伸ばし、その銀色の境界で、私たちは一瞬、相手の身体に触れる。
『今日もありがとう』
 同じ言葉を交わし、お互いに励まし合うように、ほんの僅かの時間、目を合わせて微笑む。私にとって向こうの家が心地良いように、向こうの私にとっては、こちらの家の方が心地良いのだ。
 銀色の水面を抜けると、暗い家に辿り着く。私にとっては鏡の中のような、余所余所しい家で、朝を待つ。


 花言葉「心休まる家庭」。

いただいたサポートは、私の血となり肉となるでしょう。