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【名探偵はお嫌いですか? 2】 名探偵VS事件代行人

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https://note.com/erikusatei/n/n3f87feda265e

 その『自称』名探偵に邂逅したのは、去年の六月下旬。憎き遠(とおる)叔父を殺しに赴いた私の出鼻を完璧にくじいて、その名探偵は笑った。ので、私は彼を一生恨むことに決めている。
 遠叔父は、あの名探偵が言ったとおりに、しかる後に肺がんで死亡した。勝手に、死んでしまった。おかげで遺産は私たちのものに……、と思っていたのに、遠叔父の残した財産はひどいものだった。何のことはない、彼は私たちに対する仕打ちを反省したわけではなく、ただ殺されるのいやさに、不承不承、弁護士に遺書を書かせただけであった。
 とどのつまり、遠叔父の残した財産は、車一台に犬が二匹、そしてこの馬鹿でかいお屋敷――たったそれだけ。
 遠叔父の死後、彼の遺書の管理を任された弁護士に呼ばれ、親族全員が顔を合わせた。とは言っても、遠叔父の親族など、私の他には、私の従兄弟が二人、その従兄弟の家族が二セット、遠叔父の、家出した愛娘が一人、とまあこちらも閑散としたものだった。中でも遠叔父に対する憎しみが人一倍強かった私と彼の愛娘は、がっちりタッグを組んで、死後も遠叔父を辱める手はずについて相談しあう仲にまでなった。
 まあそういった些事はおいておくとして。親族たちは、遠叔父が残した雀の涙ほどの財産を公平に公平に配分した……、というよりはさせられた。勿論、弁護士が全ての采配を振るったからである。
 かくして、従兄弟とその家族らはそれぞれ犬を一匹ずつ連れて帰ることになり、愛娘の方は免許も持っていないのに、高校生にして車を所有することになった。そして残る私はといえば、遠叔父の醜悪な臭い漂う、この大屋敷を手に入れたのである。
「こちら、先永(さきなが)遠さんのお宅で間違い御座いませんか?」
 私が一人で物思いにふけって居ると、そんな声が、屋敷の正門のほうから聞こえてきた。夏中湿気がこもって仕方ないため、私は家中の窓や扉を開け放っていた。そのどれかから響いてきたものと思われる。
「そうだが」
 私は応えながら、正面玄関まで歩き、扉を開けた。そこには、まだ若い郵便局員が佇んでいた。彼はにこにこと、私に一通の封筒を手渡した。
「それじゃ、ボクはこれで失礼します」
 郵便局員は停めてあったバイクに乗り、去っていく。
「何だ、これは」
 私は、手渡された封筒の、宛名のところに目を留める。そこには、『先永遠様』、と書かれていた。
「これは、……遠叔父宛ではないか。死亡通知が届かなかった知り合いか誰かか?」
 死人宛に送られてきた封筒は薄っぺらく、透かせば中身が見えるのではないかと思われるほどだった。しかし、私はそんなことはしない。開けてみればいいのである。
 早速屋敷に戻り、私は自室の引き出しからペーパーナイフを取り出した。遠叔父は屋敷内に小物や家具を残しており、そのまま全てを私が相続したのだが、このペーパーナイフは、その中でも特に有用性の高い一品である。すぱ、と景気良く封筒を開け、中身を机の上に出す。
 ぱさり、と落ちてきたのは、一枚の便箋だった。
「何々……」
 私は目を細めて、それを読む。
『拝啓 先永遠様
 遠様から承っておりましたご依頼、もうすぐ完了いたします。
 つきましては、代価についてご相談致したく、お手紙差し上げました。
 ご都合がつき次第、お返事ください。
 敬具』
 依頼、とは何だろう。
 私は首を捻りながら、その便箋や封筒を裏返してみたりした。が、連絡先はおろか、差出人の名前すら確認できない。たった一つ確認できたのは、何らかの印章。いや、これは紋章か? ――水滴が、丸くて平面的なお盆のような物から垂れている、そういう文様が、便箋の下部に記されていた。繊細な模様で、いちいちこんな形を描いてはいられないだろうから、これは多分押印されたものだろう。はんこか何かか。
「しかし……。依頼、ねえ」
 この屋敷を相続してから一年。そろそろ売り払って引っ越そうかと思っていたのだが……、なかなかに面白そうなにおいがするではないか。――これは良い。
 私は一人でにまにまと笑い、その文様をじっと見つめた。これは、一体何を表しているのだろう。もしかしたら暗号か? 錯視を用いて連絡先を記してあるとか。
「うーむ」
 私はその日一日を、その文様を眺めることで潰してしまった。しかし、私一人では手に負えないことのように思えてきて、次の日、仕方なく親友の知恵を借りることにした。先永千年(ちとせ)――遠叔父の愛娘である。
「もしもし、千年か?」
 早速彼女の携帯電話に電話をかけると、すぐさま応答が返ってきた。
『へろへろへろ~もしもし、ちっとせちゃーんでぇっすよ』
「私だ、美寿寿(みすず)だ。ちょっと、今日、来てもらっていいかな。相談したいことがあるんだ」
『みっすずちゃん! おぉ~う、久しぶりっだね。相も変わらず冷静沈着、沈着冷静だーね。うん、何、相談?』
「そう。ちょっと説明しにくいことだから、直接来て、見てもらいたいんだ」
『オッケーおっけー、みすずちゃんの頼みなら、ガッコなんてサボタージュするよぅ、こちとら。首を洗って待ってろよ!』
「有難う。じゃあ、待ってる」
 千年は相変わらず元気そうで、何よりだ。彼女が来るまでの間、一眠りでもしようかな。
 そう思って、長いすに身を横たえた時だった。
 部屋の窓が、ノックされた――『こんこん』。
「…………?」
 鳥か、何か、馬鹿な生き物が、方向転換できずに当たったのかな。
 そう思い、私はそれを無視した。屋敷は三階建てだが、この部屋はその更に上に当たる屋根裏部屋だ。好き好んでこういうところに住む必要などはさらさらなかったのだが、ココ以外に、遠叔父の気配を感じずにいられる所は、この屋敷にはなかった。高いところに位置するこの部屋の窓には、時たま方向を見失った虫やらなんやらが窓に捨て身アタックを仕掛けることがあった。だから、今回もそれだろうと考えたわけである。
 が、しかし。音は止まなかった。『こんこんこんこん』、とより激しさを増しているようでもある。――一体なんだというんだ。
 私は不機嫌に、窓まで歩く。覗き込むと、そこには全く予想していなかった生き物が鎮座していた。
「……人間」
 そこには、人が座っていた。ここはあくまで三階以上の高さに当たる。一応屋根の上に、登ろうと思えば登れるが……人が登る用に造られたものではない。――サーカス団から逃げ出した、軽業師か何かか?
 その人間は、軽業師にしてはきちんとした服装をしていた。ビジネスマンが着るような灰色のスーツを着用しており、眼鏡を掛けている。全体的に理知的な雰囲気の漂う……、あ、この人、女性だ。
「何か用か?」
 私は窓を開けて、彼女に問いかけた。実際、こんなところまで来て窓をノックするような人間に声など掛ける義理もないのだが、その目的を、純粋に知りたく思った。
 女性はきりりとした目つきで私を見、口を開く。
「お初にお目にかかります。わたくし、覆水(ふくみず)探偵事務所の者です」
「ああ、……あいつか」
 青いスーツの名探偵。どこか信用のおけない、そういう表情の人間だった。
 私はその名前を聞いて、うんざりする。
「あいつの所の人が、私に何の用だ? 私はもう、殺人を犯そうなどとは考えてないぞ」
「今日は、そういう用件で伺ったわけではありません。その……、覆水を、匿っては頂けないでしょうか」
 女性は、どことなくしおらしく、目をそらしながら、そう言った。『突然のことで誠に申し訳なく思うのですが、そこのところをどうか』といった雰囲気だ。だが、私はそんなことで心を動かされるような人間ではない。
「生憎だが、この屋敷にあのような人間を泊めて置けるだけのスペースはない。精神的にも、物理的にも、不可能であり無理だ。帰ってくれ」
「そんな……」
 女性は、私の言葉に衝撃を受けたようにオーバーな身振りで、哀しみを表現した。
「一生恨むと決めた人間を、どうして私が匿わなければならない。見返りもなさそうだしな。帰ってくれ」
「お礼ならきちんと致します。それに、今は貴女以外に頼る人もいなくて」
「何故」
「え?」
「何故、私以外にそいつを匿える人間がいないのかと聞いている」
「それは……」
 女性はあちこちに視線を泳がせ、一瞬考えを巡らしたようだったが、しどろもどろに口を開いた。
「実は貴女以外の方々にもお頼みしたのですが……。風邪でも流行っているのでしょうか、皆さん病気だから移すと悪い、と仰って」
「……あいつには、友達はいないのか」
 私は呆れて、ため息をつく。
「匿うと言ったな。一体何があったんだ」
 女性は、私が態度を軟化させたことを察知して、急にそわそわし出した。何だか、きっちりした風の女性だと思ったのだが、間違いだったろうか。
「実は、覆水は今、瀕死の重傷を負っているのです」
「何、瀕死の重傷? それなら匿うとか言ってないで、さっさと病院へ行け。私の出る幕ではない」
「いえ、それが……『敵』はどこに潜伏しているか分かったものではありませんので、病院のような人の多い場所へは、ちょっと……」
 今、『敵』とか言ったな、この人。――どういう話なのか。面白そうではある。
「ふん。で、どんな傷を負っているんだ?」
「それは――」
 女性が口を開くよりも早く、彼女の後ろから、得体の知れない生物が顔を出した。人間の形をしたそれは、全体的に青く見えるのだが、所々赤く疎らな模様が見える。――ああ、覆水か。
「見たほうが早いでしょう……。こういう有様になっております、先永美寿寿さん」
 瀕死の重傷を負った名探偵は、自らそのような台詞を吐いて、にっこり笑った。

「しかし、美寿寿さんもぼろ儲けですね。このような大きな屋敷に、たった一人で住んでらっしゃるなんて」
 覆水はぐるぐるに巻かれた包帯などものともせず、器用にティーカップを傾ける。
「だが、諸々の費用がかかって仕方ない。そろそろここも引っ越そうかと思っていたところだ」
 私が答えると、覆水はひょいと肩をすくめた。
「覆水再起(さいき)、お前、一体何をやったんだ」
「ああ、この怪我ですか? これはですね。ちょっとした兄妹喧嘩が元なんですよ」
「何、兄妹喧嘩? ……ちょっと待て、先ほど彼女が言っていた『敵』とか言うのはまさか」
「妹のことですよ」
「な、…………」
 何ということだろう、と私は一人で頭を抱えた。名探偵の『敵』というからには、『怪人うんたら面相』とか、『怪盗なんたら』とか、『うんたらかんたら教授』とか、そういう類の何らかの意味で超人的な何者かのことを意味しているものとばかり思っていた。
「いやぁ、ちょっとした諍いでしてね。妹は気が短いもので」
「お二人とも、ご自分の仕事のことになると一歩も譲らないものでして」
 覆水の助手であろう女性は、眉を寄せて言う。
「まあ、何はともあれ、美寿寿さんが優しい人で良かったです。私、さっきは結構危ない状態だったものですから。流石の名探偵覆水再起も、ここで終わりかと」
 大げさな、と私は首を振った。確かにところどころ出血してはいたが、致命傷は負っていなかった。放っておいてもあと五日は生き延びられただろう。あの程度の出血で重症だの匿ってくれだのと、騒ぎ立てる阿呆はこの二人以外にはいない。
「いやあ、それにしても立派なお屋敷ですねえ」
 覆水は、私たちがいる広間を見渡して、呟いた。この広間は一階、正面玄関からまっすぐのところにある。割と広い場所ではあるが、こうして来客がない限りはあまり使わない。
「それほどでもないがね。叔父の道楽は無駄にスケールが大きかったから、住居も自然こんなことになったようだ」
「しっかし、……ん、あれ。美寿寿さん、この便箋は何です?」
 覆水が拾い上げたのは、昨日届いた差出人不明の手紙であった。
「ああ、それは昨日届いたものだ。何故かあて先が遠叔父になっている」
「ふうん。へえ。気になりますね……、実に気になります」
 覆水は急に声のトーンを低めた。手に持った便箋をじいっと見つめている。
「そうですか……、どうしてこれがここに……。ああ、そうか。この手紙の差出人、分かりましたよ美寿寿さん」
「なに。誰だ」
 覆水は私の問いには答えず、苦労して懐から、携帯電話を取り出した。
「見てください、この模様。これ以外に、差出人を特定する材料はありませんね?」
 覆水は、私も気になっていた、便箋に押されたあの模様を指差し、それに携帯電話を近づけた。
「これはですね、こうやって使うんですよ」
 覆水がそう言うのと同時に、携帯電話がちろりんと鳴った。
「QRコードの、応用形です」
「…………なるほど」
 私は思わず感心して、覆水を見つめた。――こいつ、使えなさそうな顔して、なかなかやる。
「御覧なさい」
 覆水は、携帯電話の画面を私に見せた。何処かのサイトらしい。よくよく見ると、『覆水不起事件請負所』と、真っ青な文字で書かれている。その下には、事務的な説明書きがずらずらと並んでいる。
「覆水……」
「不起(ふき)。私の妹です」
 しれっと、覆水はそんなことを言う。
「妹は、言うなれば私の生涯のライバルでしてね。商売敵と言っても良いんですが」
 覆水は、嬉しそうに言った。
「それじゃあ、遠叔父は、その覆水不起とやらに、何かを依頼していたというわけか」
「そうみたいですね。……よっぽど覆水家をひいきにしてくれているようで」
「どういう意味だ?」
 私が聞き返すと、覆水はいや別に、と首を振った。
「妹はですね。私とは正反対の職を選んだんですよ」
 名探偵とは正反対の職業……となると、それは。
「『犯人』……という奴か?」
「おや、ご明察」
 覆水はぱちぱちと手を叩く。うそ臭い拍手だ。
「このサイトを見ても分かるのですが、妹は、事件を代行して起こす、事件代行人を生業にしているんです」
「……また、随分と無理やりなネーミングだな」
 兄妹揃って、変人ぞろいというわけか。
「どんな事件を起こすかによって、その代価は変動します。彼女なりの規律というものがあるらしいですね。……で、先永遠氏の依頼はもうすぐ完了する、と。一体何を代価に指定するつもりでしょう」
「ああ、そうだ。それなんだが、その依頼とやらは、破棄できないのか? 遠叔父はとっくに死んでいるし、どんな依頼だったのかも私は知らない。なかったことにはできないのか」
 私は、ここぞとばかりに、聞きたかったことを矢継ぎ早に聞いた。覆水の来訪は私にとって凶事でしかなかったが、話がこういう方向に進んだとなれば別だ。
 覆水はそうですね、と少し考えていたが、やがて顔を上げた。――そして、急に後ずさりを始めた。
「…………? どうした、名探偵」
 私は、こちらを向いたままゆっくり広間の向こう側へと後退する覆水に、そう聞いた。覆水は、私を指差し、首を振る。口元が、今にも泣き出さんばかりに歪んでいる。
「う……」
 またうえうえと泣き出すのだろうか、と一瞬身構えた私だったが、そのとき屋敷の外から、千年の声が聞こえた。
「みーすずっちゃん、ちとせ、ただ今ケンザンっ、致しましたぁっ!」
「おや、千年か。……はいはい、今行く」
 私は、正面玄関の方へ歩く――不意に、それを引き留めるものがあった。私の服を掴んで離さないのは、勿論広間の向こう側に立つ覆水ではなく、助手の女性であった。彼女は、無言で首を振る。
「…………」
 開けてはいけません、と言っているようだが。しかし。
 私の知ったことじゃない。
「みぃすずちゃ~ん」
「はいはい」
 私は女性の手を剥がし、そのまま歩き、扉を開けた。そこには、いつも通りおとなしそうな佇まいの黒髪女子高生・千年と、もう一人がいた。
「ええっと。どなたさん」
 私は、その謎の人物Xの、頭から靴の先までを見渡した。――これは、どういう美少女だ。
 美少女という呼び名以外にふさわしいものはない、そういう少女が千年の隣に立っている。服装としては、ゴシックロリータのピンクバージョン……えっと、こういうのは何というのだったか。ブランド名は忘れたが、ふわふわのフリルとレースに包まれた、童話の中のお姫様を彷彿とさせる、そういうワンピースに、彼女は身を包んでいた。日傘もまた、服装とぴったり調和した薄桃色の可愛らしいデザインのものを、腕に下げている。
 また、顔はフランス人形のごとき大きな瞳と長い睫毛、小さな唇を具えた、正に『美少女』の典型。髪の毛は、流石に日本人なのでブロンドではなかったが、色素の薄い茶色で、ハーフのような繊細さを持っている。
「ご紹介しまぁっす。こちら、覆水不起さん。そこの道でばったり会ってぇ。意気投合したんで、一緒に来ちった! てへへへっ」
 千年は無表情に、台詞だけ騒がしく、静かにそう言った。
「はあ、どうも……。ええっと、覆水不起さん。よろしく、私は――」
「先永美寿寿さんですね。以後お見知りおきを」
 からん、と鈴の鳴るような声で、覆水不起は言い、礼をした。
「どうやら、サイキ兄がお世話になっているようで」
 サイキ兄、……。ああ、そういえばさっき覆水再起の様子がおかしかったな。そうか、この娘の来訪を予感していたわけだ。
「あの名探偵は、この奥にいる。上がるといい」
 私は扉を大きく開けて、二人を屋敷に招いた。途端、広間の方から「裏切り者ーっ」という悲痛な叫び声が聞こえ、それと同時に不起がハイヒールで走り出した。
「およっ? 不起ちゃん、何やら急いで走り出した模様っ! そっか、トイレだ」
 千年が淡々と実況するが、その目的は違うようだ。不起はかつかつと音を立てながら廊下を走り去った。広間の方から悲鳴が上がる。私と千年は久闊を叙し、ゆっくりと広間へ向かった。たどり着いたときには、そこは阿鼻叫喚渦巻く、地獄絵図と化していた。被害者は見たところ再起一人だけのようであるが。
「ああ、美寿寿さん……助けに来てくださったんですね」
 青いスーツは見る影もなく、不起のハイヒールの下から弱弱しい声で、再起は言った。
「何を勘違いしている。私はあんたを一生恨むと決めた人間だ。むしろせいせいするわ」
「……それはひどい」
 再起はがっくりと床に顔をつけて、沈黙した。
「覆水先生、覆水先生!」
 不起の日傘を咽喉元に突きつけられた女性が、壁に張り付いて、再起に向かって呼びかける。
「サイキ兄は、私の仕事の邪魔をするのが好きなのですか。いつもいつも」
 言いながら、不起はぐりぐりと再起の背中をハイヒールで踏みつける。そこには、私や千年の遠叔父に対するものと、勝るとも劣らぬ、憎しみが見て取れた。どうやら兄妹仲は本気で悪いらしい。
「おやおや、こりゃあ酷いっ。流血地獄、狂気の沙汰っ! 地獄の沙汰も金次第って奴っすかぁ?」
 一人だけやけにテンションの高い台詞を口走る千年は、それでもやはり無表情だった。
「で、で、で。みすずちゃん、相談事ってなーに?」
「……相変わらずだな、千年。場の空気の読まなさ加減はまったく変わらん」
 私はとりあえず感心し、千年の頭を撫でる。千年は静かに目を閉じ、口を閉じた。……これで少しは、まともに話が出来るだろう。
「さて。ではまず、不起さん。あの手紙について、話をしよう」
 私がそう提案すると、不起は大きな瞳をぱちりと動かし、私を見た。
「……手紙……」
「そうだ、手紙だ。ほら、そこの名探偵が握り締めているだろう」
 不起は、再起の手の中にあった手紙をいささか力強すぎる勢いで奪った。そして、ちらりと目を走らせる。
「ああ、これですか。ええ、もうそろそろ仕上げ段階に入るので、差し上げたのですが。……そうですね、今は丁度良い機会です。遠氏と代価について話し合いたいと思うのですが」
 呆れた。本当に、依頼主の生死を知らなかったらしい。
「先永遠氏なら、一年前に死んだよ、不起」
 足元からの兄の言葉を聞き、不起は苛立ったように手紙をくしゃくしゃに丸め、放り投げてから日傘で突き上げた。天井に、手紙の亡骸が埋め込まれた。――あああ。
「死んだ……ですか。そうでしたか。それは全く知りませんでした。そうですか」
 不起は何度か肯いて、それから再起のわき腹を蹴った。蛙みたいな声を出し、再起は横様に転がる。
「大方、サイキ兄がまた邪魔でもしたのでしょう。いつもいつも、私が起こそうとする事件の邪魔ばかりして……! いい加減、大人しく事務所に篭っていれば良いものを」
「ちょっと不起、それは誤解だって。私は何もしていないよ」
 再起は言い返すが、具体的な行動としては、何一つ抵抗していない。兄として、それはどうなんだろう。
「では、他に誰が私の邪魔をすると言うのです。誰が、私への遠氏の死亡連絡を滞らせたと言うのです」
「……いや、私にもそんなことは分からないけれども」
「じゃあ黙っていればいいのです!」
 再び再起と不起の諍いが起ころうとしている。私も少々困り、その会話を遮った。
「……で。不起さん、その、遠叔父の依頼はどういうものだったんです?」
 不起は、仕事の話ということでようやく落ち着いてくれたようで、その足を兄の体からどけた。
「遠氏からの事件依頼ですか? 別に守秘義務はありませんから言ってしまいますけれど……」
 そうして彼女が口にしたのは驚くべきことであり、信じがたいことであり、また妙に嘘っぽくて、過分に信憑性があった。それを聞いて私は、その依頼を破棄することを断念した。――ああ、千年を強制的にスリープモードにしておいて良かった。今の話を聞かれていたら、その依頼の価値はなくなってしまうところだった。
「……という依頼だったのです。どうです、遠氏はいませんが、貴女、代わりに代価を支払って、依頼継続なさりますか」
 そう、不起は言った。
「その、依頼だけど」
 私は、不起に尋ねる。
「本当に、完遂できるのか」
 私の問いに、覆水不起は初めて、にこりと笑った。
「勿論ですとも」

 数週間後の昼前、携帯電話が鳴った。寝ぼけ眼をこすりながら出ると、相手は予想通り、千年だった。ハイテンションな、それでいて静かな声が聞こえてくる。
『きゃっほーい、みすずちゃん! 今日はね、今日はね。すっごいことがあったんだよ! ビッグでジャンボな、大事件! 事件、事件』
「……そう。で、どんな?」
 私は、その全貌を知りながら、問う。千年は先ほどまでよりも少し感情の入った、――嬉しそうな声で、言った。
『私の本当の父親だっていう人が、新しいお母さんと一緒に、うちに来たの!』
 ああ、ちゃんとうまくいったのだな。
 私はほっとして、――微笑んだ。
『みすずちゃん? 聞いてるっ?』
「ああ、……聞いてるよ」
 先永遠の依頼は完遂された。と、いうことは。
「ごめんくださーい。先永美寿寿さんのお宅ですよね?」
 正面玄関から、男性の声が聞こえる。
「△△運送のものですー。引越しのお手伝いに上がりました」
「はいはい。……それじゃあ千年、また後で掛けるから」
 千年の賑やかな別れの言葉を聞いて、私は電話を置いた。

 ――もう、この屋敷とも、お別れだ。


《こちらは10年ほど前に書いた「名探偵はお嫌いですか?」の続編です。前作を読んでいなくても問題はありませんが、読んでいただけていればより楽しめると思います。このシリーズは楽しんで書いた覚えがあるので、読んでくださった方にも楽しんでいただけると良いなと思います。何か感想等ありましたら是非コメントしてください。》

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