『みんなの「わがまま」入門』

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富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右社。
社会運動を研究対象としている著者が、不満をいう、権利を主張するといった「わがまま」について中高一貫校で講演したこときっかけに完成した一冊。

本書でいう「わがまま」とは

自分あるいは他の人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動

を指す。もっとわかりやすくいえば「権利や不満を主張する」ことだ。

デモを行う権利はそこまで重要ではない?

手前味噌で恐縮だが、42の民主主義国家を対象とした大規模世論調査に関わるお仕事を年明けに引き受けた。調査対象国には日本も含まれている。42ヶ国全体では、デモを行う権利は民主主義が機能するために重要だと答えた人は82%いたが、日本単独ではたったの51%だった。日本ではデモの形をとる社会運動が政治参加の方法として軽視されているといえる。
なぜ「わがまま」をいうことは疎まれるのか?

「ふつう」という幻想、そして利害を共有しづらいバラバラな社会

みんなの中には「これがふつう」という考えが少なからずあるだろう。私自身、毎日のように「『ふつう』をぶん殴れ!」と思いながら生きているが、それでも「これがふつう」という考えを剥がしきれないでいる。「ふつうは就職する」「ふつうは異性と恋愛をする」「ふつうは結婚する」「ふつうは子供をつくる」など社会には「ふつう」がはびこっている。こうした「ふつう」から逸脱することはなかなか怖い。
しかし、データを見てみれば、こうした「ふつう」に当てはまる人はそう多くない。「多様性」とか「多様化」とか聞き飽きるほど言われているが、実際私たちの社会はいろんな生き方の人たちで成り立っている。社会的属性が個人の人生を決定づけるとは言い難い。もちろん一部の属性に対する偏見は根強いが、たとえば私ならば、女性だからという理由である種の人生を選ばざるを得なかったということはない。時が流れていくにつれて、人々はより多くの選択肢を持てるようになった。また、個人が持つ背景も人の移動などにより複雑化している。たとえば、外国にルーツを持っていたり、外国で人生の一部を過ごしたりした人は決して少なくない。
素晴らしい事態だが、こうした変化は「○○として共有できる利害」が著しく減少していることも意味する。同じ女性だからといって、一人ひとりが異なる選択をしてきているため、共有できる利害が少ない。昔は同じ属性を持てば、同じ境遇、同じ利害、となったところが、今や同じ属性でもみんな生き方も価値観もバラバラ。

こうして「ふつう」の幻想が消えない一方で、社会は多様化しており、「わがまま」をいうと「ふつう」から逸脱するのみならず、「わがまま」を「共有できる利害」として分かち合うこともしづらくなっている。したがって、「わがまま」は「ずるい」「自己中」などとみなされやすい。
傷ついたから、嫌な思いをしたから、生きづらさを感じているから声を上げたい人たちにとっては受難だ。

世界を変えるほどの「わがまま」ではなくても、ちゃんと意味はある

フランス語で "changer la face du monde" という表現がある。「世界をひっくり返す」と訳せるかな。
「わがまま」をいうと、「ずるい」「自己中」以外に「そんなことをしても何も変わらない」、「世界をひっくり返すせるわけない ("ça va pas changer pas face du monde")」という批判もある。だが、組織や社会に違和感がある、その違和感を解消したい、と考える人にとって「わがまま」を言うことは複数の意味を持ちうる。そのうちの一つが「自分を変えること」だ。たとえば、社会運動に参加して、同じ違和感を抱いている人がいることを知るだけでも、安心感を得たり、心強く感じたりできるだろう。「これは問題だ」と指摘してもよいと考えられるようになるかもしれない。だから、著者は「わがまま」をいうことで、すぐさま世界が変わらなくていいし、自己満足でいいと主張する。

そもそも、世の中はすぐには変わらない。個人的な話で恐縮だが、数年の時を経て私の「わがまま」(内部通報)がある程度の「成果」を出した経験は、以下の一連のツイートで明らかにしたとおり。

セクハラの行為者が当初は役員に反省文を書くという処分を受けた、と知らされた時には何重にも疑問が湧いた。
なぜ役員に?
身体的接触を伴うセクハラなのに反省文?
しかも、支店長という支店内で最も権力がある人間による性暴力なのに?
セクハラする支店長のまじめな指示を聞いてもこちらは「そんなまじめな顔して指示出してるけど、飲み会では女性の体触ってる気持ち悪いクズじゃん。そんな人の指示なんてまともに聞けないわー」といった心境にしかならず、会社にとってもセクハラする人間がマネジメントする立場にあることは大きな損失なのではないのか?
そんなわけで、私の内部通報は小さな世界(会社)でさえひっくり返せなかった。

それでも、数年経ってこの人がエリートコースから外された、という事実も無視できない。私の通報が決定的だったかどうかはわからないが、私の通報は少なからず影響を及ぼしただろう。人事部の記録に残っていたことが幸いした。だから、「通報なんてしないで、会社を辞めるときに格好いい捨て台詞を吐いた方がいい」と言ってきた人がいたが、結果的には相手の記憶からすぐさま消されるであろう捨て台詞を吐くよりも、人事部に記録を残す方がよっぽど効果的だった。つまり、「わがまま」をいって、数年越しに「成果」があらわれることがある。

この「わがまま」経験を通じて、上司が数年後に左遷されたこと以外に、
①通報を応援してくれた同僚がいて安心できた
②通報の限界を知れた
③通報の記録が残ることの重要性を認識した
といった収穫があった。「わがまま」をいうという行為にはたくさんの意味がある。通報するのは怖かったし、緊張したし、もっとうまくやればよかったという反省もあるけど、しないよりはした方が1億倍よかったし、この経験は自分を変えたと思っている。だから富永氏は「自己満足でもいい」と言う。

どうしたらモヤモヤできるのか?

本書はモヤモヤしたこと、違和感を抱いたことに対し「わがまま」をいうことをどういった意味を持つのか、どう「わがまま」を言えばいいのか、などを教えてくれる。
ところで、先日ある人に次の参議院選挙で投票するか尋ねてみたところ
・自分は生活できている
・どの政党も同じ
・自分が投票したところで何も変わらない
という理由から「投票には行かない」と言われた。端的にいって絶望した。それでも「議会が変われば、あなたの労働環境や購買力が変わる可能性がある。今の社会で問題だと感じることはない?」と聞いだがほぼ無反応だった。私の壮大なお節介だったのかもしれないが、親しい人なので何かを私に隠しているとも思えず、彼の中にある深く強固な諦めを感じて、心から残念に思った。

だって、いくら過酷だとはいえ、多くの人たちが「わがまま」を言ってくれたおかげで今の世界は成り立っているから。女性参政権も、妊娠中絶の権利も、男女が差別なく働ける権利も、制服で自由にスラックスもスカートも選択できる権利も、特定の病気の人に対する差別の是正も、公害被害の是正もあれもこれも、誰も「わがまま」を言わなければ実現しなかった。「わがまま」を言った人たちの中には偉人ではなく、私のような目立たない人たちも大勢いる。香港でも、フランスでも、アルジェリアでも長期にわたりデモが続き、実際に政治的影響を及ぼしている。だから「したくなければ、投票しなくていい。政治参加の形態は多様だから。でも社会は変えられるよ。あなたは無力じゃない」という趣旨のことを件の彼に伝えたのだが、何一つ響いていなかった。互いに違う言葉をしゃべっているかの如く通じ合えなかった。

つまり、モヤモヤを感じて、それを解消したい、と思うことさえ一部の人には不可能になっている。「こんなこといいな できたらいいな あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど~」なんて歌さえ歌えなくなっている。さて、どうしたものか。諦めている人を前にするとこちらも諦めそうになるので、諦めの連鎖だけは避けたいのだが……

本書には「モヤモヤするものを探す」というエクササイズがある。とても身近なものを題材にしているので、このエクササイズをヒントに理想を掲げられず、自分を無力だと諦めている人にモヤモヤを探してほしい、と願っている。モヤモヤすることは希望を持つことだから。

最後に、本書とあわせて宇野重規『未来をはじめる――「人と一緒にいること」の政治学』(東京大学出版会)を読んでほしい。感想はこちら

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