見出し画像

「非常事態」という言葉を聞くと思い出すこと。

最近のニュースで「非常事態宣言」と聞くと、重ね合わせることが適切ではないと100%思いつつも、個人的には、よく思い出してしまうことがあるのです。

実は私はバングラデシュ でバッグ作りを2006年にスタートしたのだけど、その翌年に、バングラデシュ が非常事態宣言になってしまったこと。

私、そのど真ん中で現場に居続け、仕事していたので、鮮明に覚えているんです。

これは政局の混乱が理由で今とは全く違うのだが、確かに「非常事態」ではあった。

2007年1月に行われる予定だった総選挙がボイコットされ大混乱し、非常事態が解除されたのはなんと1年後だった。

辛すぎたこの期間、バングラデシュ で踏ん張っていた私は、今振り返ると人生で一番戦闘モードだった。


一年中そのインパクトが強かったわけではないが、2007年はじめは日々情勢がどうなるか、正しい情報がわからない中で不安でいっぱいだった。
政局の混乱が原因だったので、道ではデモ隊による行進、デモ隊同士、デモ隊と警察の衝突が絶えず、その度に誰かが命を落としていた。

バッグを作り始めて生産委託工場を回っていた私は、どうしても工場に行きたくて、今思えば日本に帰ればよかったのに、リアルに物を出荷しないと小さな会社が倒産しちゃうし、お店に商品がなくなってしまうのだった。

当時入谷という下町にお店があったのだが、なんと新宿小田急百貨店に出店が決まりそうになっていた。
家賃が10倍くらい違う百貨店に並ぶ商品が、ストライキで作れない、という状況。本気で、顔面蒼白な毎日だった。

非常事態宣言で一番市民の生活を振り回したのは、デモ隊がいつどこで組成され、どういうルートで進み、衝突するのかが分からず、道路封鎖がアチコチで起きたことだった。
デモ隊と遭遇してしまうと手榴弾やガラスの破片が飛んできたりと、とても危険だった。だから街には人が消えた。
車が走っていると標的にされるケースがでてきた。
私は毎日「リキシャ」と呼ばれる人力車で移動していたのだが、それも捕まらず、徒歩で行くには危険がありすぎた。
更にバングラのデモ隊に参加すると日当がもらえるという本当なのかわからない真実が出回り、学生がとても多く駆り出されていて、衝突により命を落としていたのは悲劇すぎて言葉がでなかった。

また経済への影響はとても大きく、非常事態宣言が発令されると次々とバイヤーは中国に戻った。

そう、バングラデシュ はネクストチャイナと呼ばれ、大体が中国生産をより安い国にシフトする選択肢としてバングラデシュを利用していた。よって、「カントリーリスク」となれば、再び中国へ、あるいはミャンマー、ベトナムにシフトしていた。
26歳の私は、人生最大のピンチが訪れ、日本への責任と、自分自身のミッションと、政治に対する憎悪でつぶれそうだった。
当時の日記を見返すと、本当に政治に対する文句や不満でいっぱいで、怒りのボルテージマックスだった。

でも怒っても、どんなに泣いても、状況は当然改善しないわけで、隣に相談相手がいたわけでもなくとにかく孤独に問題と向き合っていた。

私は、アパートで「ものづくりを止めない方法はあるのだろうか」脳内戦略会議を毎日していた。


工場に到着できたら物は作れるのか、

工場の付近に住んでいるスタッフの数は何人か、

素材調達を新規にしなくても在庫は何が残っているのか、

物流会社で機能している会社はどこか、空輸、船便の状況、

そして最後に、安全に日々工場に向かうルートは探し出せるだろうか。

さながら戦闘地域の兵士だった。

デモ隊のルートは正確に掴むのは本当に難しかった。車が走っていると手榴弾の標的になるので、本当に少ないリキシャか徒歩か、の選択肢だったから、しかも女性が1人で歩いているとなると非常に目立ってしまうことがわかった。
そこで私はルートを掴むという方法ではなく、デモ隊が稼働しない「時間帯」に注目した。暗い早朝はもっと危険なので、明るくなってから人間の活動が活発になる7時半よりも少し前あたりが最も危険が少ないのではと思った。

その時間に工場の近くまで行きたい、なるべく大通りを歩いて行った。


そして、9時前に工場に到着して、工場周辺に住んでいるスタッフを数人呼び出し、非常に少ないが生産を続けた。
今思えば、こんな危険な選択肢はありえないし、会社のトップがやるような行動じゃないのは百も承知だし、山ほど問題なのはわかってる。
しかし、現実、ベンチャーで0から何かを立ち上げようとする私にとって、この逆風をなんとか乗り越えなければならないって恐怖心と戦いながらとった行動だった。

今回私がnoteを書きながら振り返っているのは、当時の自分から今の自分へ何か言い聞かせられることはないかなということ。

当時私がこの経験から学んだ一番大きいこと。
それは、シンプルに「自分のコントロールでどうにかなるものとそうではないことは、ばっさり、くっきり、しっかり、太線で境界線を引こう」ということ。

デモ隊の動きはコントロールできなくても、工場で生産を諦める必要はない。
浮き彫りになった「自分のコントロール下にある空間」は、「コントロール化にある資源は何か」、何が「自分が動かせるのか」だった。

それが私にとっては「工場内」だった。「一旦工場内に入ることができたら、手を動かせる。」その思いが、当時の私を支えた。

何度も言うがそんな危険な状況で、私の行動は全く非難されるべきだと思うし、この話題自体、適切なたとえか微妙なんだろうけれど、私個人的には、当時学んだエッセンスが、今すごく、自分の中に生きている気がしてならないのだ。

まだまだ小さな企業なので、経営者として守るべきものを守るために、

もう一度ノートに境界線を引こうって思って。

自分のコントロール下にあるもの、自分のコントロール外のもの。

そして最も大事なこと、「自分の心」を自分のコントロール下において、笑顔で前向きに、日々を過ごしたいなと思っている今日この頃。

(写真は、そんなバングラで作っているお仕事バッグ 。ヘビーな内容と全く関係ありません笑。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?