2011.3.11の時、大阪で私は

仕事中だった。

2011年3月11日14時46分18.1秒。
東日本大震災が起こった時、私は何をしていたのか。
自分自身の記憶を整理するためにここに書いておくことにする。

当時サングラスメーカーに勤めており、受注発注、最終検品、梱包、発送、電話応対と割となんでもやる部署だった。
14時46分というと、その日の発送準備前でこれから慌ただしくなるという時間だろうか。私はパソコンに向かっていた。

あれ、揺れてる?
まるで大型船に乗っているような、ゆらーり、ゆらーりとした揺れ。
その揺れが確かなものか自信がなくて、数秒、タイピングの手を止めて集中した。
あまりにもゆったりとしているので、もしかしたら自身の体調がよくないのか、めまいを起こしているのか、とも考え始めていた。
周囲の同僚たちはなにごとも無いように業務を続けていたからだ。

しかし、おさまらない揺れに我慢できなくなってバッと立ち上がった。
「え、どうした?」
と声を掛けてもらってようやく声が出せた。
「なんか揺れてませんか?」
え、揺れてる?本当?
と少しざわついたので、ああ、やっぱり気のせいなのかもと自信を無くしかけた時、
「いや、揺れてる」
と、となりの島に座っていた営業さんが私を見て力強くうなずいてくれた。
同時にフロアの端にある総務部からテレビ(なぜか置いてあった)の音声と共にどよめきが聴こえて思わず駆け寄った。
画面に映る日本列島の地図。東北が真っ赤にチカチカ点滅している。
大地震が起きた。
先程のゆったりとした揺れを思い出して悪寒がする。
しばらく茫然とテレビを見つめていた私を含む同僚たちは先輩のとりなしにより業務を再開した。

勤めていたメーカーは全国の眼鏡店と契約しており、東北地方にも数件お店があった。
数日後にやっとつながった電話で、とりあえず必要なものを教えてもらってすぐに送ることにした。(被害状況についても聞いたはずだが記憶が曖昧。スタッフの皆さん無事だったと聞いた気がするが...)
買い出しから戻ってきた総務の先輩が今まで見たこともないくらいの大きな段ボールをさっと組み立て、ひとつひとつの物資を同僚に紹介しながら詰めていく。
「これは、一回一回手を拭くからめっちゃ使うんやって」
「これが全然足らんのんやって」
災害時になにが必要なのか、なにが足りないのか。仙台の店と福島の店、それぞれの状況もまた違う。
「あと、これは言うてはらへんかったけど...」
と個包装されたお菓子の袋も出来るだけ入れた。災害時にはぜいたく品になってしまうが、ホッと一息できる時が少しでもあってくれたらという願いがあった。

支援物資を何度か送りつつも、職場はすぐに日常に戻った。
私は、報道や被災地の方が投稿する動画を観漁ってしまい、メンタルダウンしてしまった。3月11日が近づいてくるたびに色々と観て読んで気落ちしてを毎年繰り返している。
あの不気味な揺れに気付いた時被災地では...という感覚を忘れるのがどうしようもなく怖くて辞められないでいる。

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1人目を出産後の2015年3月11日、例によって震災関連の情報を色々と読んでいたら、福島で子育て中という女性の話をみつけた。
去年までの私ならここまで泣いただろうか。昼間の明るい光が差す部屋で、もうすぐ9か月になるユウを抱いたまま、嗚咽が出るのをこらえながら泣いた。

簡単に離れられるわけじゃない
でも、離れたい
目に見えない、得体の知れない恐怖と不安
子どもを守りたい
これからどうなるのか
明日がどうなるのか
自分の身体は大丈夫なのか
なにを食べればいいのか
なにを飲めばいいのか
選んでいられないこともたくさんある
外に出られない
家の中が安全かもわからない




「母乳をあげても大丈夫なんですか?」

きっと今までで一番というくらい、エンパシーした瞬間だった。
その人の靴を履いていた。
その人の苦しみが、不安が如何ばかりかと思いながら
安全な場所で抱いている9か月の我が子の重みと温かさを感じていた。

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