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自分が愛を向けてこそ、その短所はあなたの美しさになる

私には毎朝の習慣がある。

朝起きると鏡の前に立ち、パジャマの裾をめくる。鏡に映った自分のお腹をなんとなく観察して、触ったり撫でたりする。
大学生の頃、ダイエットをしていたときの習慣で、朝空腹の状態が一番スッキリしているから、その状態でのお腹を観察する。

なのでまぁ、私のお腹はそれほど細くは無いけれど、十何年間ずっとずっと私が目を向けてきた部分なのである。
もう少し細い方が世間的には美しいのだろうけど、私は全然嫌いじゃない。白くて滑らかで可愛らしい。


自分を受け入れる、自分の身体のありのままの美しさを認める、という言葉は、色んな場所でよく聞くようになった。
でもそれって、何でもかんでもさらけ出して「ありのままで美しいんでしょ」と思えばいいもんでもないと思うのだ。

だって、その自分の身体、あなたは充分に目を向けて愛していましたか?
ちゃんと意識を向けていましたか?って思わない?
何も気を遣っていない、汚い状態で目の前に出されるの嫌じゃない?

着衣ストリッパーとして活動しはじめて(勝手に)、自分なりの美しさを表現しようとインスタグラムで試し始めた。

それで、毎回お洋服を着て写真を撮影しているのだけど、一度試しに脚を大胆に露出して撮ってみた写真を見てびっくりした。
・・・え?膝黒ずみやば。

小学生の頃、きっかけはなんだったか忘れたけど膝に血豆が出来て、気になって弄ってるうちに角化してしまったタコ(っていうのかな?)が膝にある。
膝を出すことも最近あまり無くて、もう暫くその存在を忘れていたのだけど、やつは確かに私の膝で生き残っていた。
毎日お風呂上りにクリームは塗っているはずなのに、私はその存在が全く目に入っていなかった。

これはダメだ。フツーに恥ずかしい。
っていうかこうやって書くことさえ恥ずかしい。

ずっと自分さえ意識を向けていなかった部分を露出して、「これが私の美しさよ」っていうのは無理がある。

その人それぞれの美しさ、人と違うからこその美しさは本当に素晴らしい。
でもそれは、ただ何も自分が意識を向けず、愛する労力もかけず、放置しておいたものに対して言える言葉じゃない。
自分が大事にしていないものが、他人から愛される訳がない。

自分が愛をかけて認められているからこそ、人と違う自分の個性は、例えそれが世間の「美しい」基準ではないものでも輝いてくるんだきっと。

ということでスクラブをオーダーして膝のケアはじめることにします。
身体の後ろ側って意識しないとなかなか見ない場所だなと思って、今度からお風呂入る前に鏡で見て触れてみる。

これは外見の話だけれども、内面の話も同じ。

逆に、世間的に見ていくら美しくても、人より何かの能力が凄くても、自分が愛を向けて認められていなければ、それは全然魅力的じゃない。「今の世の基準から見てすごい」っていう条件付きのフィルターが入っているだけ。

コンプレックスも短所も、愛を向けて磨けば美しいダイヤモンドだよ。



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