死のうと思って、それでも。

昔の話ですが自傷行為についても触れるので、苦手な方は読まないでください。












昔は、自分の生き死にだとか体調だとか、腕の傷だとか大量服薬とか、自分でもよくあんな勇気あったなってことを繰り返してきた。
死にたいと毎日考えて、死ぬ方法を考えて、調べて、傷は深ければ深いほど落ち着いた。
血を見れば、いつでも死のうと思えば死ねると分かるから。
たかがこの赤い液体に、肉と皮、細胞。その塊。

でも私は死ななかった。
奥底にある希望を諦めたつもりで諦めきれなくて、
未遂を繰り返して生きた。
結果、未遂は未遂でしかない。次の絶望があるならきちんと。という極端な死生観になっちゃったんだけど、
今のところまだ死なずにこうやって息をしている。

パートナーの存在、友人の存在、私を否定せずいてくれる。でも間違ったことは違うと言ってくれる。
その存在は私にとって、自分より大事な宝物だ。
自分より大事ななんて言ったら、
私を大事だと言ってくれるパートナーに失礼だからあまり言わないようにはしている。

でももし、私が死ぬことで宝物たちが幸せになるということが、もしもあるなら。
躊躇わないと思う。
十分生き、幸せで、宝物もあり、その上で“私が死んだら幸せになる”なら、十分だ。
でもできればシワシワのおばあちゃんになって、パートナーの横で、大切な友人たちと雑談でもしたいから、
そんな“もし”なんてなかったらいいなと思う。

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