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色と私(スピンオフ2) 物語の効能

失敗から
自分を責めちゃったとき、


読んだばかりの
風の谷のナウシカのワンシーンが
ロールモデルとなってくれて
私を導いてくれました。

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出典:  宮崎駿 著/風の谷のナウシカ6巻/徳間書店/1993年12月20日/p76~77

物語が[実際の自分]の器の中に注いでくれるもの

ナウシカに重ねた私は、
失敗後に私を襲ってきた[自己否定・無価値感の感情]を
まさに、このドルクの弟皇帝の姿に重ねました。

ナウシカがドルクの神聖皇弟を
「この者はすでに私の一部です」という姿が
強烈に印象に残っていました。

なのでそのとき私に襲いくる[負の感情]を、
ナウシカになって捉えてみよう、と思えました。

すると、ナウシカが[闇そのもの](=ドルクの弟皇帝)に
優しく手を差し伸べて、オドオドとおびえる[闇]と一緒に居てあげた
その振る舞いが、私にインストールされたように思い出されました。
そんなイメージをしていたら、さっきまで[私が]感じていた怖さが
どこかにいっていまったかんじでした。

人間のもつ空想力の凄さを体感した感じがしました。

[実際の自分]を脇に置き、 
物語に自分を重ねて見つめられるメタファー/ 喩え話 /寓話は、
自分の心を味わうのに
強力なツールだなぁと沁みました。

本質的なものは、物語を通して体感や気づきを味わっても
[実際の自分]の器の中にも、ちゃんと注がれている。
そんな感じがしました。

絵本や文学作品が、子どもたちにとって大切なのもうなずけます。

この世界は極と極の間に広がっている

掘り下げてきた[分極性の学び]から、
光も闇も必ずセットで自分の中に存在するものだ
という前提が腑に落ちていたのも、
負の感情を[私の一部]だと向き合ってみるために
背中を押してくれました。

「本質は、強すぎて直視しにくいものだ」

これは色彩自然学者の高橋水木先生が仰っていた言葉なのですが、
それを聞いた時には、さっぱり意味が分かりませんでした。

私の場合は
本質についてものすごく興味があり、「本質を知りたい。本質を見出せるようになりたい。人と本質で語り合いたい。」と思っていたから、
『え?逆じゃなくて?みんな見たいものでしょ、本質。』と目を白黒させていました。

でも、
今回、物語というフィルターを通して見たことでようやく自分の[闇]を見ることができた体験から、なんとなく、先生の言葉の意味がわかりかけてきた気がします。

本質の持つ、強すぎる[光の眩さ]や[闇の漆黒さ]は、
あいだに比喩や物語などワンクッションを挟まないと、
直視したり人と共有することは難しいものなのかもなぁ〜と。

これも、色の学びから得た気づき。

深い〜〜〜(おもしろい、おもしろすぎる〜〜〜!)

まとめ

メタファー・メタ認知から得られる捉え方の広がりは、
[自分が自分である]を越えて
[0Center]に立てる
[全にして個]を味わえる視点へと
連れて行ってくれました。

にしても、
この感覚の言語化、激ムズ!🤣

引き続き観察してみます。

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