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水泳部

イジメのメドレーリレー〜お前はこれからも違う人と出会って同じように嫌われるんや!

#1. 5. 水泳部

ちょっと本編に入る前に…。

夢と希望にあふれた日々。それが一転して転落していく。そんなことは想像だにできなかったあの当時。

当時の自分にとって、水泳部は希望の象徴でした。あとはおだやかに寮生活をおくり、受験勉強を経て大学に進学できれば、と。

そんな考えが、一部の人々によって粉砕されます。もちろん自ら志願した分際で、そんなことがいえる立場ではないのは承知の上です。しかし人間がこんなにおぞましい生き物であることまで予測がつかなかったのも事実です。

とりわけこの水泳部の居心地がよかった分、次の判断を遅らせてしまい、取り返しのつかない結果となりました。

天国の水泳部と地獄のさつき寮。

両者を天秤にかけた結果は、冒頭で述べた通りです。悪貨は良貨を駆逐する、と。

それでも最後まで希望を持ち続けた日々を紹介します。

それでは、本編へどうぞ。

柳学園に入学し、さつき寮ヘ入寮を果たし、その次は水泳部の入部です。入部当初、自分は全く泳げませんでした。それが練習を通して泳げるようになり、体格がみるみる変わっていくのです。

入部直後はまだシーズンオフで、走り込みなどのトレーニングがメインでした。当時自分は喘息の持病を抱えていて、走るのもままならない状態でした。当初はすぐ息切れして完走できませんでしたが、回を重ねていくうちに完走できるようになりました。

ゴールデンウィークが近づくにつれ、プールに水が入ります。プール掃除を経て、プールでの練習になります。程なくして泳ぎ方を覚え、練習に励むことになります。連休中も練習はありましたが、この時は特例で帰省しました。

練習の日々。この年はまだまだ試合に出られるレベルではありませんでした。しかしそんなことは気にしませんでした。そんなことよりも、ブヨブヨだった体格が筋肉質に変貌していく姿に喜びを感じました。

そしてその喜びは、パパにも伝わりました。保護者会があったついでに、パパはプールに来ました。その変貌を遂げた息子の姿に、無我夢中になってカメラのシャッターを切ったのです。

楽しい練習の毎日。一日一日が夢と希望に溢れた日々。そんな中で自分には、未来への視界が良好に映っていたのです。

自分が水泳部に入部した1年生の時は、先輩は3年生ひとりだけで、2年生はいませんでした。そのためか、水泳部にはいわゆるタテ社会という概念はなく、翌年入部する後輩もタメ口でした(タメ口は水泳部内のみのローカルルールで、他クラブの上級生には敬語でした)。当然ながら、パシリというのもありませんでした。最近Facebook で淡路島に関するコミュニティーをみたのですが、クラブ活動での上下関係は皆無に等しく、タメ口も当たり前だそうです。

それでは部員のモラルが低いのかといえば、そんなことはありません。ひとりひとりが主体的に練習メニューをこなし、試合では結果を残していました。

そして教員はどうだったか。確かに単細胞でおっちょこちょいで、お世辞にも優秀な指導者とはいえません。ただ練習のメニューは決して無茶苦茶なモノではなく、まともでした。

口よりも手が先に出たり(今なら傷害罪に問われそうですが)、合宿でも罵声を浴びせるなどといったやんちゃな一面もありましたが、少なくとも昭和末期のあの時代なら赦(ゆる)されるレベルでしょう。特に障害事件になるようなレベルではなく、練習によるケガや後遺症が残るようなことはありませんでした。

平成に入って当時の同窓会で見た教員は丸くなった印象でした。事実確認した訳ではありませんが、特にやんちゃしている様子を感じませんでした。

柳学園水泳部は、組織としては模範となるクラブといってもいいでしょう。前向きな姿勢で目標に向かって進めば結果は自ずとついてくる、の見本です。言葉遣いなんて些細なことでしかありません。自主的に活動している組織に、上意下達の正当性を主張しても、何の説得力を持たないのです。

夏休みに入り、水泳部では合宿に入りました。練習量も通常の倍以上になります。この合宿で、教員は自分に対して次のようにいいました。

「お前はこれからも違う人と出会って、同じように嫌われる。なぜならお前は社会に適応しようとしないからだ」。

この発言が、教員と自分との間に亀裂が入った最初の第一歩になり、最終的には修復不可能なレベルにまで拗れました。

当時なぜこんなことをいわれたか分からず、困惑しました。現にこの後の仁川学院でも、予備校でも、この発言通りに違う人と出会って同じように嫌われていきました(仁川学院で起きていたことが錯覚だと気付いたのは、しばらく後になってからです)。この段階では、教員の発言が正しかったと認めざる得ませんでした。

後になって教員の根拠のないいいがかりだと分かりました。若さ故に真に受けてしまったのでしょうか。それに気付くのにかなりの時間がかかりました。彼は後にことある毎に「やられる方に原因がある」といっては、加害者の肩を持っていました。

水泳部の中でも、教員の指導に難点もありましたが、全体的には悪い雰囲気ではありませんでした。そして泳げるようになってはじめて、淡路島の高校生が参加する全淡大会にも出場。記録はともかく、出場するだけでも楽しかったのです。

シーズン最後の試合となる兵庫県ジュニア大会(以下、県ジュニア)には、制限タイムをクリアできず、出場できませんでした。しかし落ち込むことはありませんでした。なぜならカナヅチから泳げるようになり、体格も立派になった上に、持病の喘息が出なくなって、目標以上の成果を出したからです。

この県ジュニアが終わったのを機に、水泳部のプールでの練習が終わり、シーズンオフになりました。この日を境に、学校周辺の5キロ走行をはじめ、トレーニングを積み重ねました。

来年は試合に出場する。

そんな目標を持つのは、もはや自然な流れでした。試合をイメージしながら練習に励む日々。水から陸に上がってからも、その姿勢は変わりませんでした。

この時期からは、練習も日曜日は休みになり、連休になれば実家への帰省は認められました。とはいっても、帰るのは練習が終わってからでした。

帰省日になると、同じ方向に向かう部員とバスに乗って帰りました。目的地のバス停に着くと、部員から「気を付けて帰れよ」といわれるのを合図に別れを告げ、自分はフェリーに乗り込みました。

この当時の一年間を振り返ると、全体的には良かったのではないでしょうか。寮生活で理不尽なシゴキがあったり、教員からいいがかりを付けられたりしましたが、それらは許容範囲内でしょう。少なくとも学校をやめる理由はありませんでした。

2年目に突入。

雲行きが怪しくなったさつき寮と絶好調の水泳部。地獄と天国を行き来する日々。より困難に陥る2年目がはじまります。

シーズンオフのトレーニングも順調に行い、春休みに温水プールでの合宿を経て、2年目になりました。1年目で期待以上の成果を上げましたが、2年目になれば、更にその上を目指して必然的に試合出場という目標設定がされます。


  • 兵庫県大会

  • 私学水泳大会

  • 全淡水泳大会

  • 兵庫県ジュニア大会

兵庫県の試合は制限タイムがあったので、1年生の時は出場できず、2年生になった時点でもクリアしていませんでしたが、伸びしろを見越して出場を目標にしました。

又1年生の頃から中長距離の自由形が適正と判断されたので、出場種目も400m 自由形と1500m 自由形がメインになります。兵庫県大会ははじめての大きな試合の出場になるので、100m 自由形も出場しました。

そして後輩も入ってきました。後輩といっても、キャリアは彼らの方が上でしかも泳ぐ種目が違うので、上下関係はほとんど意味を成しませんでした。クラブの雰囲気は和気あいあいとしていて、タメ口もお約束でした。部員ひとりひとりが目標をもって取り組んでいたので、上意下達である必要がないのです。

2年生になってからは、ゴールデンウィークの帰省はせず、練習に明け暮れました。そして日に日に試合出場ヘの手応えを感じるのです。

日々の練習を積み重ね、ついに兵庫県大会(以下、県大会)の出場にこぎ着けました。とはいっても自身のベストタイムは依然として制限タイムを切っておらず、本来なら出場できないのですが、見切り発車での出場となりました。

会場は自宅からさほど遠くなかったのですが、チーム一丸となって試合に挑む、という理由で自宅に戻らず、部員と共に同じ宿に泊まりました。県大会の会場まで同じ電車に乗って移動し、試合に挑みました。

今までにない独特の雰囲気。プレッシャーに押し潰されそうになりました。足がつかないプールなんてはじめてでした。順番が巡ってきて、飛び込み台に立つと、足がガクガクしてきました。泳ぎ終わってプールから上がると、教員は自分に握手してきました。

結果は自己ベストを更新したものの、制限タイムを切れず、水泳連盟から『警告書』という紙切れを受け取りました(この試合は予選なので警告になりますが、決勝では失格となります)。とはいえ、それは自分には気になりませんでした。何よりもこの経験こそが大事だったのです。

次は私学水泳大会に出場するのが目標になります。種目も400m 自由形がメインになります。この大会は制限タイムがないので、気楽に挑めました。またしてもベストタイム更新。この日はパパも駆け付け、夢中になってカメラ撮影をしてました。

この後の全淡水泳大会では、泳ぎ終わって思わずガッツポーズしてしまいました。練習の成果が面白いように反映される。水泳部のなかでは、全てが順調に推移していったのです。

寮生活が荒れていく中、水泳部は相変わらず絶好調でした。いや、この絶好調な状態こそが、自身の悩みを深めていくのです。

そんな中、9月半ばに県ジュニアが開催されました。この県ジュニアは、ジュニアといっているだけあって出場できるのは1年生と2年生のみで、1年生の時に出場できなかった自分にとっては最初で最後の試合になります。県ジュニアの制限タイムですが、前回の私学大会の400m 自由形で既にクリアしていたので、あとはどれだけ記録を残せるかつまり伸びしろがどの位あるかが焦点となります。

この『最初で最後の試合』というのがどういうプレッシャーになったのか定かではありませんが、コトもあろうに前日に喘息の発作が起きたのです。長い間喘息が出なかったので、当時薬を持っていませんでした。結局一睡も眠れないまま会場に行きました。

パパに薬を持って来るように連絡し、順番を待っていました。周りからは

「お前、棄権しろ!プールで浮かんでたらどうするんや」。

などいわれました。

ついに順番が巡ってきました。息がゼイゼイする中、飛び込み台に立ち、水の中に飛び込みました。するとどうしたことでしょう。それこそ水を得た魚のようにスイスイと泳いでいきました。そしてベストタイム10秒も更新してゴールイン。喘息は一瞬にして治ってしまったのです。

パパが薬を持ってきてくれた時には、既に泳ぎ終わった後でした。あまりの変わりように教員をはじめ部員もパパも呆れかえりました。

「来年の県大会は400m 自由形と1500m 自由形やな」。

教員が自分にこう語りかけるのとは裏腹に、果たしてこの二学期を乗り越えられるのだろうか。希望と絶望が交錯する日々。この後、残酷な現実と向き合うことになるのです。


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