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ラッサムとはいったい何なのか〜エリックサウス「チキンラッサム」が誕生するまでのいささか冗長なお話〜

「ラッサムって何ですか?」
もしそう質問されたら、とりあえずはこう答えます。
「豆の煮汁にタマリンドやトマト、そしてスパイスを加えた、辛くて酸っぱい南インドのスープです」。
しかしこの答えはあくまで「とりあえず」のものです。これはラッサムの正体のごく一部しか言い表せていません。
ラッサムの正体について、ここからちょっと面倒で、しかしとても面白い話を繋げていきます。気が向いたらどうかしばしお付き合い下さい。

「謎汁」という概念
あなたが口に入れる液体状の物質、つまり「飲み物」にどういうものがあるかちょっと思い返してみてください。
単なる「水」を除けば、それは大体以下のいずれかに分類されるのではないでしょうか。

・お酒
・ソフトドリンク
・スープ

お酒とそれ以外の境目は、単純に「アルコールを含むか否か」です。
アルコール度数の低いお酒は限りなくソフトドリンクに近いかもしれませんが、その境界線はだいたい明確です。

ソフトドリンクをざっくり2つに分けるとすると、「甘い飲み物」「甘くない飲み物」に分かれます。前者の代表がジュースで、後者の代表がお茶でしょうか。

スープの条件は「塩気」と「うま味」です。「うま味」は「ダシ」と言い換え可能な場合も多いですね。味噌汁もコンソメスープもポタージュも、スープと呼ばれるものは概ね「塩気」と「うま味」を備えています。

しかし実は「ソフトドリンク」と「スープ」の間には、よくよく考えるとどちらともつかない第四のカテゴリが存在しているような気がするのです。
例えばそれは「トマトジュース」です。トマトジュースは「ジュース」と名がついているものの、それはオレンジジュースやグレープフルーツジュースとはあきらかに異なる種類の飲み物です。トマトジュースには、食塩およびトマトそのものが持つナトリウム、つまり塩分が含まれています。なおかつトマト由来のグルタミン酸つまり「うま味」も含まれています。このうま味は「昆布だし」と同種のものです。つまりトマトジュースは、ソフトドリンクとスープの中間的な存在と言えそうです、

もうひとつ例を挙げましょう。愛知県三河地方に古くから伝わる「味噌湯」という飲み物があります。どういうものかと言うと、かの地の名産である八丁味噌をお湯で溶いてゆるゆると沸かした物です。味噌を液体に溶いた飲み物の代表は言うまでもなく「味噌汁」ですが、味噌汁はダシ、もしくは野菜などの具材、もしくはその両方の「うま味」が豊富に溶け出した、いかにもスープらしいスープです。「味噌湯」はそれと似ているようで明らかに別物です。味噌にはもちろんそれ自体にグルタミン酸つまりうま味が含まれてはいますが、それだけでスープと呼ぶにはいささか頼りない。しかも味噌湯は味噌汁より味噌を薄く溶きます。そしてそれは実際にご当地では、スープとしてと言うよりむしろ「お茶」に近いものとして飲まれているそうです。

日本以外にも目を移しましょう。中東のとてもポピュラーな飲み物に「アイラン」というものがあります。これはヨーグルトを水で薄めて塩で味付けしたものです。これは日本人にとってなかなか奇妙な味に感じられます。これもまたソフトドリンクともスープともつかない飲み物です。

もう一度日本に戻ると、日本人にとっての伝統的なソフトドリンクであるお茶(特に煎茶や抹茶)も実はうま味(グルタミン酸)を豊富に含む飲み物です。それ単体ではスープにまでは至らないかもしれませんが、例えば「お茶漬け」は限りなく「スープご飯」的な食べ物です。
国民的漫画作品「サザエさん」にこんなシーンがあります。「どんな食べ物が好き?」と聞かれたワカメちゃんがこう答えるのです。「お茶にお醤油を入れて飲むの」。
現代の豊かな日本ではもはや絶滅した飲み物かもしれませんが、これもまたソフトドリンクとスープの中間として認識されていたであろうことは想像に難くありません。

そんな一連の「ソフトドリンクとスープの中間的な飲み物」には固有のカテゴリー名が今のところありません。なのでここでいったんそれを「謎汁」と呼ぶことにします。あまりセンスの良い呼称とも思えませんがそこはどうか多目に見てください。

謎汁天国インド
実はインド料理はこの「謎汁」カテゴリーの飲み物がたいへん充実している食文化体系です。
代表的なひとつが前述の「アイラン」とよく似た「モール」という飲み物です。
このモールには、生姜や香菜やスパイスが加わるバリエーションもあり、そうなるとますます「限りなくスープ寄りだけどスープではない何か」になります。このモールと極めて近い飲み物に「ソルティラッシー」「ソルティマサララッシー」もあります。日本人もよく知る甘酸っぱい、いかにもソフトドリンクなラッシーとはかなり趣を異にする飲み物です。

「ジャルジーラ」という(日本人には理解不能に近い)飲み物もあります。タマリンド(極めて酸味が強く甘味がほとんど無いドライフルーツ的なもの)を薄めた酸っぱい汁に、硫黄の匂いがする塩や、クミンを中心とするスパイスが加わったものです。

そして実はラッサムも元々の姿はスープというよりむしろ謎汁カテゴリーの飲み物なのです。

ラッサムの歴史的変遷
冒頭で「ラッサムはスープである」と説明しました。少なくとも現代においてそれは決して嘘ではありません。しかし、時代を遡るとそれはそうとも言えなくなってくるのです。

①原初のラッサム
おそらくなのですが大昔のラッサムは、タマリンドを薄めた酸っぱい汁に塩と胡椒を加えただけのものです。そこに豆の煮汁も加わっていた可能性はありますが。
その頃のインドには唐辛子もニンニクもトマトもありませんでした。それらが含まれない原初のラッサムは、豆の煮汁由来のはかないうま味はあったかもしれませんが、スープと呼ぶには程遠い何かです。ちなみに「ラッサム」という古語由来のその名称を現代語訳すると「胡椒水」ないしは「胡椒ジュース」です。

②大航海時代後のラッサム
大航海時代を経て新大陸からインドに唐辛子がもたらされ、インド料理は一気に現代のインド料理に近付きます。そしてその少し前に中央アジアからニンニクももたらされていました。どちらも「うま味」をそこそこ含む食材です。原初のラッサムにこの2つが加わった事で、ラッサムはもう半歩だけスープに近付きました。
唐辛子と同時期にやはり新大陸からトマトももたらされました。インドでトマトが普及して料理に多用されるには唐辛子よりもうしばらく時間がかかったようですが、いつしかラッサムにも時としてそれが加えられるようにもなりました。
トマトという食材は圧倒的なうま味の塊です。トマトが加わったことで、ラッサムは限りなくスープに近い飲み物になりました。もはやその時点で「謎汁」の領域を超えたと言ってもいいのかもしれません。

ちなみに現代のインドでもトマトが入らないクラシックなラッサムは現役です。もしかしたら家庭料理としてはそっちの方が主流かもしれません。しかしインド料理のお店ではそれはほとんど目にすることはありません。量の多寡はあるにせよ、だいたいトマトが含まれています。

トマトが入らないクラシックなラッサムを実際に体験したい方は、日本における南インド料理の第一人者にしてレジェンド料理人である沼尻匡彦シェフが営む「ケララの風」というレストランを訪れてみてください。インド人シェフすらあっさり手放した原初寄りのラッサムを日本人が大事に守っている、その尊い現場がそこにあります。


③現代のラッサム
近代インド料理レストランの成立には、インド人だけでなくイギリス人を中心とする欧米人の貢献も重要です。近代インド料理レストランは、インド人向けというよりむしろイギリス人たちに向けて設立されました。そこにおいてラッサムはあくまで「スープ」であることが求められました。なぜなら欧米人は(日本人ほどではないにせよ、少なくともインド人よりは)うま味を重視します。そしてヨーロッパには「謎汁」文化がほとんどありません。日本と共通するソフトドリンクである「紅茶」は、日本のお茶と違ってうま味成分をほとんど含まないのです。
スープであることを求められたラッサムにおいて、「うま味の塊」であるところのトマトの重要性は否が応でも増していきます。そしてラッサムは(少なくとも近代レストランにおいては)遂にスープとなるのです。

エリックサウスのラッサム
2011年創業エリックサウスのラッサムは、明らかにスープです。つまりトマトの存在感がかなり強調されています。それはつまり「うま味」を重視する日本人に対する配慮と言うよりはむしろ、エリックサウスの中の人が普通に普通の日本人だったから、とも言えます。
ところが! その時点で日本人のマジョリティは、かつてより更に強いうま味を求める人種に進化(?)していました。トマトの力を得て限りなくスープ化していたラッサムも、カツオだしに代表される動物質のうま味にすっかり魅了されているおおかたの日本人にとっては、やはりどこか物足りないものだったのです。
なのでエリックサウスのラッサムはあくまで「好き嫌いのはっきり分かれるスープ(飲み物)」としていったん定着しました。エリックサウスの中の人は「本当においしいものはそもそも好き嫌いが分かれるものよね」というある種の中二病的な価値観の持ち主だったので、それはそれで良しということでとりあえず決着したのです。

チキンラッサム! そういうのもあるのか!
そんな中で、中の人はある知見を得ます。それは沼尻シェフと並ぶ南インド料理界の泰斗、渡辺玲氏によってもたらされました。それは「インドにはチキンラッサムという料理がある」という情報です。
中の人は衝撃を受けました。ラッサムが日本でいまひとつポピュラリティを獲得しきれないのはそこに動物性のうま味が欠如しているから、というのが中の人の見解(あるいは達観)だったのですが、その問題を解決するにはそこに動物質のうま味を足せば良いという(よく考えれば、というか考えるまでもなく当たり前な)方法論が提示されたのです。
中の人は「これは何がなんでもインドでチキンラッサムを味わってみねばなるまい」と決意しました。そしてそれはその直後のインドへの渡航であっさり叶えられました。

しかしその邂逅は実に残念なものでした。どういうことか。インドの高級ホテルで初めて出会ったチキンラッサムは、ちっともおいしくなかったのです!
マズかったと言えば言い過ぎかもしれません。しかしそれは、いかにも安っぽいトマトスープに鶏肉が入っただけのボンヤリとした汁物でした。そりゃまあトマト味のスープにチキンのうま味が加わればそれはそれなりにおいしいかもしれないけど、そこにはラッサムならではのトマトやタマリンドの酸味や、スパイスの目が覚めるような鮮烈さは皆無だったのです。それは言うなれば、インドに来たはいいもののインド料理を全く受け付けない保守的な欧米人のために渋々用意された、無難で凡庸なスープとしか言いようのないものでした。

そして生まれたエリックサウス版チキンラッサム
失意の帰国から数年後、中の人はふと思い立ちます。
チキンラッサムという料理が成立するならば、あの時インドでがっかりしたアレがチキンラッサムの本当の実力だとは到底思えない。ならば自分が改めて理想のチキンラッサムを作り出せばいいではないか、と。

先ずは大量のトマトに鶏肉を加えてスープを煮込みました。
そしてそのどう考えても充分すぎるほどリッチな旨味を有するそれの包容力を信じて、通常のラッサム以上の香味野菜とスパイスを加えました。正直ドキドキするような加減でした。
ちなみに、大量のトマトにより酸味は充分にもたらされたと判断して、タマリンドは思い切ってしオミットしました。
最後に香ばしさを付与するために南インド伝家の宝刀「テンパリング」もきっちりキメました。

でき上がったものは控えめに言って最高でした。
謎汁ではなくスープであると同時に、「ゴハンが進みすぎる」、一般的なカレーよりも更にスパイシーなカレーとしても成立していました。

これ以上は何も言いません。
是非一度味わってみてください!

チキントマトラッサム

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