料理のコンクールから お仕事へ
コンクールで入選、特選したことで、料理のお仕事、つまりスタイリング、レシピを雑誌で書かせてもらえたらと、ひそかに望んでおりました。
しかし、当たり前ですが、そんな簡単に仕事は頂けないものです。
賞金で東京に行き、ある編集長の方に相談したところ
「スタイリスト・料理家は、まずアシスタントで25歳くらいから有名な先生に付いて、そこから独立するのが普通なのよ。最初からフリーは、無理だと思う。それにスタイリスト・料理家は、全然違うお仕事なのよ。どちらか一つを選んだ方がいいと思う。池田さんは、始めたのも遅いし、難しいかも・・・」
今となっては、そのような基本も知らない状況で、編集長に相談し、お恥ずかしい限りでした。アドバイスに従い、レストランのメニュー開発にも売り込むことにいたしました。
しかし、私の周りに食のお仕事をしている人は皆無で、どうしたらよいのか。しかもフリーからのスタートですので、作った名刺を配り歩くと言ってもどうなんだろう。何か手がかりはないかと思い、ふと新聞を見ますと、広告欄に学校案内があったのです。
当時、辻調のフードコーディネーターコースというコースがありました。
どのような授業なのか、説明会に参加しますと、ニューヨークの最先端のスタイリングの様子などが動画で紹介され、画期的で感動しました。何はともあれ、受けようと思ったのです。
申し込んだコースをいざ受けてみると、損益分岐点の計算の仕方や粗利、原価、オペレーションなど、極めて現場に即した講義で、私には、後にとても為になる内容でした。講義内容があまりに現実的だったので人気がなかったらしく、このコースは一回で終わったようです。幸運でした。
体調は、相変わらず、波があり、朝、起き上がれないこともしばしばありました。このような体調では、到底、仕事がもらえないのでは、と気分が沈みました。
目標設定
因みに、このフードコーディネーターコースは20万だったこと、ファックス、パソコンを購入し、計50万の初期投資。
何とか1年以内に食の仕事で取り返すことを目標としました。
その為には身体の状態を見つつ、二本立てで売り込みをかけないとこのお金は取り戻せないと思い、焦ってもおりました。つまり出版とレストランなどの外食メニューのお仕事、二本立てです。
初めての雑誌の仕事
まず初めての雑誌の仕事は、レシピでもなく、パンの取材をコンクールで特選した雑誌社から頂けるようになり、後に関西で美味しいお店などを紹介する記事もお仕事させて頂きました。
しかし、あくまで単発のお仕事で、仕事で生計を立てるには、ほど遠いものでした。
30%のレシピ作成
毎月、何がしかの記事・レシピを書きたいと思ったのです。
当時、私の拠点は関西のみでしたので、関西の出版社は、今もそうなのですが、ごく限られてしまいます。関西の出版社は2社ほどで、そのうちの1社、Lマガジン社に売り込みをかけました。何度かレシピを送り、ようやく掴んだのが、1ページの連載ものでした。最初のきっかけは、編集長の講演会に行き、「仕事、いただけませんでしょうか」とお伝えしたことからです。
お仕事内容は、ダイエットスイーツのレシピ、カロリー計算、スタイリング、そして原稿で1ページの連載のお仕事です。ギャラは材料費は込みでした。しかし震災でほとんどお皿は割れてしまい、お皿を購入すると、まったくお金が残らないどころか赤字でした。これはビジネスではないと思いまして、お皿をデパートで借りたらどうかと、ふと思い立ちました。当時はまだレンタル会社もなく、デパートに交渉し、商品名を写真の下に明記することを条件で借りることが出来たのです。そして手元にお金が約30%は残すようにしようと自分で決めました。
後に、この雑誌で私のスタイリング、レシピを見た通販、乳製品の企業からオファーがかかり、仕事を頂いたのです。
と同時に、東京の出版社(関西HANAKO)でもお仕事が始まりました。
雑誌の後ろには、その当時、アンケートはがきが添付されており、そこに「お仕事、ください」と書き、送ったことがきっかけです。
今、思うと恥ずかしいのですが、お仕事が欲しい一心でした。
幸運にも編集担当者からお電話を頂き、嬉しいことにお会いする機会を得ました。
これまでの書いた記事とコンクールの内容をお見せし、連載ものがスタートしたのです。
雑誌については、これで何とか二本、頂けることとなりました。
さてレストランの仕事は・・・というと、辻調という学校のフードコーデイネートの講義で話されたイタリアンレストランオーナーから仕事依頼があり、そこでレシピ作成のお仕事を細々と頂くようになりました。
比較的、早い段階でお仕事を頂いたことで、辻調のコースで「フードコーディネーターで仕事を掴むには」という授業を受け持つこととなりました。
コース受講から半年ほどで、これらもろもろの食のお仕事から、初期投資を何とか取り戻すことが出来たのです。