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ちょっと「たなおろし」を思いたちまして 食のお仕事を始める前


そういえば人生の半分は、このお仕事、食に関係する仕事をしているなぁ。
あっという間でございました。

音楽から食へ

このお仕事をする前、つまり前職は、ピアノを弾いておりまして、大学卒業後、しばらくそのまま母校で非常勤講師をやっておりました。演奏会の依頼も幾度かあり、人前でも一応、弾いたりしておりました。とはいえ、限界も感じていたことは事実です。多くの場合、演奏をするにしても、チケットを自ら売ることが当たり前の世界で、それはそれで大変だったのです。自分でチケットを売らなくても良いというのは、ごくわずかな世界的にも有名な方のみで、多少、優秀であっても大学の教授をしないと生計はたてられず、チケットを生徒に買ってもらうことが多くありました。また、教授になるには、幾度となく演奏会を開催して実績を上げないといけません。私自身、すこぶるうまいかと言うと、そうでもないと思っており、自分の力もわかっておりました。大学で教えながらも「一生は、長いようで短い、ここでずっと音楽をするより、他にもっと生かせる道があったら、きっと悔やむなぁ」と自問自答しておりました。それに狭い世界にいるより、いろいろな人に会うことが人生を豊かにするのではと考えておりました。

人、それぞれ目指すゴールは違います。ある人は、留学をし、海外の大学を卒業することが目標の人も、若干、おりました。しかし、多くの場合は私の年代の女性のほとんどがお嫁さんにいき、専業主婦となることが多かったのです。実際、学年の半分は、学生時代にお見合いをし、医者の所に嫁ぐ、もしくは、官僚の奥さんになった人が多かったのも事実です。私といえば、なんだか、中途半端に大学に残っておりました。ただ、ピアノの道ではないこと、うすぼんやり思っておりました。

そんなこんなで、あっという間に20代が過ぎ去りました。
20代は早いものです。
焦りました。

最終、20代で結婚すべく、滑り込みセーフで見合いをし、そのまま専業主婦の道、まっしぐらの予定で結婚したのです。しかし、心労がたたったためか、結婚後、体調を崩しまして、意味不明の微熱が続くようになりました。最終、離婚という形となりました。離婚については話せば長くなりますし、結構、大変だったので、またの機会にあれば、書きたく思っております。

震災から

離婚をして1か月もたたないうちに、関西の震災にあい、さらにストレスが重なり、それがきっかけで手が腫れだしたのです。
出戻りの身でしたので、震災直後は、実家に戻れず、一人でした。
水もままならない状況で、川で洗濯しておりました。
震災直後、開いている病院もなく、ようやく見つけた病院に駆け込み、血液検査をしました。
これまでチェックしていなかった項目も調べてもらった結果、ある数値が異常に高く、ようやく病気が判明しました。
「膠原病」でした。
母に電話で「膠原病みたい」というと「高原病」と思ったらしく、呑気な感じ。次第に歩けなくなり、トイレにも這って行く状態となり、ステロイドを飲みはじめることに。お薬を飲むとすぐに歩けるようになり、いかに劇薬であることも感じ(後にこのお薬の副作用で苦しむのですが)。当時、医師の説明によると、この状態では、当然、炎症を起こしやすいのでピアノはダメです。私は病気になったことはもちろんショックでしたが、むしろやめるきっかけが出来て、ホッするという複雑な心境でした。
その一方で、すでに30歳過ぎておりましたので、これまで働いたことがないから到底、雇ってもらえません。しかも音大出は、今でもそうですが、非常に就職は厳しいです。

コンクールから次なる道へ

考えあぐねた結果、結婚前、幾度か食のコンクールに応募していたことがあったことを思い立ちました。それだと体調が良い時にまとめて応募できると思い、当時、出版社がよく開催なさっていたコンクールに応募することにしたのです。

これまで自分のレシピも、一応、ノートに書き記し、貯めていたことから、それを出版社ごとに「傾向と対策」を調べ、各出版社にあうレシピを分類し、文章も出版社ごとにアレンジしました。その上で、独自性を出すために、ユニークなネーミング、そしてイラストをレシピに織り込んで送付したのです。
当時、応募名は伏せての審査だったのですが、ネーミングとイラストから「池田」とわかってもらえたようです。

出版社の好み、つまり「傾向と対策」を行ったことで、勝率がぐんとアップし、多くは入選、特選をもらえました。因みに特選の最高額は10万円でした。
私はそれを宿泊費と新幹線代に使い、出版社に売り込むことにいたしました。 



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