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#19 Be Authentic(本物であれ)

幸せであるという感覚


久しぶりに10代のころ、そして子供のころの感覚を思い出していた。
自分はinvisible(見えない存在) であり、孤独であるという感覚。この世界にはどこにも自分の属する場所はなく、心を分け合える人はいないと感じていた頃のこと。。。

きっかけは「すごく今が幸せ!」という人はどこか無理をしているんじゃないか。。という言葉を聞いた時。

私は今、おりに触れ「今の自分は本当に幸せでこの上なく満ち足りている」と感じることが出来ている。

自分に対する愛や、自分に向けられる愛をいっぱいに感じて、何があっても大丈夫という安心感に包まれている。

だから「ああ幸せ!」という歓びが自然に溢れて感謝でいっぱいになるのだけれど、その言葉を聞いたときに、思ったのが、今のこの歓びはあの時の絶望感、もう死んでもいいとまで思っていたときがあったからこそ、感じられるのかもしれないということだった。

川辺で見つけた蛙 背景に馴染んで見えづらいけれど、ちゃんとそこに存在している

悲しみや怒り、絶望が教えてくれること


今でも何かきっかけがあると、昔の自分の痛みが顔を出す。それはまだ癒やしきれてないものがあるからなのかもしれない。当時の自分の痛み完全に寄り添えていないのかもしれない。

なんども失望し、もう自分が歓びを感じることなどないと絶望していた自分、それでも生き続けた自分、意識の上では諦めていたけれど、本当の意味では諦めていなかった自分に感謝でいっぱいになりつつも、実は共感しきれていなかったのかもしれない。

絶望、諦めの前には悲しかったり、わかってもらえない、見てもらえない、聞いてもらえないことへの怒りがあったはず。そしてそれが得られない悲しみも。

求めても求めても得られない時、最初は悲しみが、そして次に怒りが湧いてくる。
悲しみも怒りも期待するからこそ、希望や望みを持つからこそ生まれる。
悲しみや怒りを避けようとすると、希望や望みを手放すことになる。
それは自分自身を手放すこと。本当の自分を手放すこと。
本当の自分であることを諦めること。

そしてそれは最大の自分への裏切りかもしれない。

諦めてしまえば、感情の揺れがなくなるので楽かもしれない。でもそれでは生きているとはいえない。だからこそ、いつ死んでもいいとか、生きている意味って何なんだろうと考えることになる。

あの時悲しくて腹がたっていたのは、自分は愛されるに値する人間だと信じていたからだと、今更ながらに気づく。そう気づくと、当時の自分をぎゅっと抱きしめたくなる。

今度こそ自分の居場所を見つけたかもしれない。
この人は自分を見てくれるかもしれない。
期待をしては裏切られ、失望する。

でもそれは外側に居場所や、自分を見てくれる人を求めていたから。
繰り返す失望は、自分の中に居場所を作り、自分がありのままの自分を見て受け入れ愛することを学ぶためだったのだろう。

Mt. Shasta近くのマッカーサーの滝で 自分を感じる

Relationship(他者との関係性)の中での学び

では自分の中に居場所が出来、どんな自分も愛せるようになったと思う今、なぜ昔の感覚を思い出したのだろう?と問いかけてみる。

そして、浮かんできたことは、どんな自分もと言いつつ、相手に対して怒りや反発を感じる自分をまだ批判する自分がいる、ということだった。

そして誰かを好きになると、相手に寄せていく自分、相手の心情を自分のもの以上に慮ろうとする自分がでてくることに気づかせてくれた。

どんなに誰かを愛そうとも、自分をその後においては本末転倒。
そして真に批判を手放す、評価判断せず、ただそうであると受け入れるのは日々の積み重ね。
Relationshipはそれを学ばせてくれる。

どんな時も自分に誠実であること。Authenticな自分で向き合うこと。
それが愛の学びなのだと思う。

自分の中の自分の居場所を譲ってはいけない。
自分の中の自分への愛を他者への愛で犠牲にしてはいけない。

他者への愛で自分への愛もさらに深く大きくなっていく。
本来そういうもののはず。そのことへのリマインダーかもしれない。

常にありのままであること。自分を大切にすることは、日々の意識して努めることが必要。

植物の世話をするように。

常に観察し、変化を感じ取り、必要なお世話をする。
水をやり、土を入れ替え、太陽が好きな植物は日の当たる場所へ、日陰が好きな植物は木陰へ。そのようにその時々、それぞれが求めるものを与えていく。

それが生きること、自分の命と魂を育んでいくということなのだと。

10/01/2022 ジャーナル

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