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名前、呼びまちがい、記号性

呼びまちがいってどういう現象なのか解明されているのだろうか。

わたしは「えり」で、妹は「ゆり」。偶然にも蛯原友里・英里姉妹と同じ組み合わせなのでとても気に入っている(漢字はちがいます)。

「絵理」と書く。姓名判断で運勢がよかったことと、絵→picture→芸術→右脳、理→science→科学→左脳、のバランス感をもった人になってねという意味合いもあるらしい。いまはそうでもないが、「屁理屈ばっかり言って!」とか「理屈っぽくてかわいくない」と言われて育ったので名前が人格に与える影響の大きさは恐ろしいと思う。

サザンオールスターズの「いとしのエリー」にもちなんでいる。1979年に発表された曲なので、その10年後に生まれた娘につける名前としてはまあまあ熟成した感もあり、安易さが感じられないところには好感が持てる。

伯父たちには会うたびいとしのエリーを歌われた思い出があり、昔はとても嫌だったが、今となってはお気に入りのエピソードなので、披露宴のお開きのあと、ゲストお帰りのあいだにかける音楽の一曲めを「いとしのエリー」にした。案の定、伯父は歌いながら会場を出てきた。

さてこの名前。母に呼びまちがわれたことはないが、父にはよく呼びまちがわれた。わたしを「ゆり」と呼び妹を「えり」と呼ぶのだ。私たち姉妹の名前は両親がつけたそうなので、ちょっと信じられなかった。幼い時は、愛情に結び付けて考えたりしたこともあった。
わたしの父は四兄弟で、三人の伯父たちもしょっちゅう私たちを呼びまちがえた。普段頻繁に顔を合わせる訳ではないのでそれは仕方がないと思った。でも伯母たちは決して間違わなかったのだ。これって性別が関係してるのかな?

呼びまちがわれるだけではない、呼びまちがえることもある。中でも痛恨のミスがある。妹を「クーちゃん」と呼んだことだ。飼い犬の名前。
長い時間が経ち、自分の夫に「クーちゃん」と呼び掛けたことも一度だけある。これは潜在意識の中で、あのかわいくて大好きだったクーちゃんのことを思い出していたのかもしれない。そういうのが口をついて出てしまうことがあるのだと思う。

学校の先生や会社の上司に「お母さん」と呼び掛けてしまうことも人にはよくある。わたしは今までの人生で3回はやらかしている。多いのか少ないのかはわからない。
思えば「お母さん」と声に出した回数は他のどの言葉よりも多いような気がする。実家にいた18年間、一日に何度お母さんを呼んだことだろう。身体に染み付いている言葉の一つが「お母さん」なのかもしれない。現に学校の先生や会社の上司を「お父さん」と呼びまちがえたことは一度もない。

最後に祖母の話。85歳を超えた祖母には、2人の娘と4人の孫、3人のひ孫がいる。娘の名前を呼びまちがえることはないし、私たち孫世代が子供だった時にも呼びまちがえることはなかった。でも孫世代が大人になり、ひ孫のうち2人目ができたくらいから名前の混在が顕著になった。
一発で呼び当てることはもはやなく、全員の名前を呼んで目当ての名前を呼び当てるのはいちばん最後だったりする。それを見ているととてもおもしろい。

現代における日本人の名前はとてもバリエーションに富んでいる。他の民族の名前について詳しいわけではないのでなんとも言えないけれど、そこに意味を求めてしまうのは日本人の豊かさでもあり悩みの種でもあるのだと思う。かつては名前なんてなかった。やがて(戸籍ができたから?)記号的な意味で名前をつけるようになった。昔の人の名前はなんて無機質なのかと思う。子だくさん時代の名残り。今はいろんな意味が付されていたり、そうでもなかったりする。でも本質的には記号だと思うのだ。

先祖と夫の仏壇に毎朝手を合わせ、全員の名前をひとり残らず声に出して「みんな健康で仲良く過ごせますように見守ってください」と祈ってくれる祖母にもう1年以上会えていない。3月末、緊急事態宣言があけたら絶対に会いたい。そのためには引き続きの感染対策を徹底していかなくては。

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