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立野正裕 日本文学の扉をひらく 第三の扉:戦争とたたかった人たちの物語

※Amazonのカスタマーレビュー欄に投稿した文章の再掲

「日本文学の扉をひらく」シリーズ第三の扉は、「戦争とたたかった人たちの物語」がテーマとなっている。

第一章 犬死とどう向き合うか——梅崎春生作『桜島』
第二章 そのとき「私」はどこにいたのか——武田泰淳作『汝の母を!』
第三章 出発と待機のあいだで——島尾敏雄作『出発は遂に訪れず』
第四章 慰安婦を連れて最前線へ——田村泰次郎作『蝗』
第五章 失われざるもの——長谷川四郎作『鶴』

ここに取り上げられた5つの作品のなかには、必ずしも手放しで「戦後文学」として賞賛できるばかりではないものも含まれている。そのことが、これまでのシリーズとは趣を異にしている。

講座の参加者たちが繰り広げる議論を下敷きに編まれているのが本シリーズの特徴であるから、読者は原典にあたってから本書を読むと、自分の意見と他者の意見とを戦わせながら擬似的に議論に参加することができる。ただ、今回は「作品紹介」としてかなり詳しいあらすじが掲載されているので、必ずしも作品を読んでいなくても、本書からあらゆる視点を獲得することもできる。

特に第二章・武田泰淳作「汝の母を!」と第四章・田村泰次郎作「蝗」は、いずれも問題作であるといえる。前者は日本軍による中国人親子への近親相姦強要と殺害、後者は日本軍従軍慰安婦が主題となっている。
すぐれた戦後文学のほとんどは日本人側の視点から描かれたものだ。しかし例えば、「汝の母を!」は中国人側の視点が導入されていることが、本書を講座の課題本に選んだ大きな理由だということを講師が発言している。この章の副題は「そのとき『私』はどこにいたのか」である。

敗戦から80年近くが経つ現在、本書を読むにあたって、「私」の置きどころを考えることが読者に要求されるいちばん大きな課題であろう。

あの状況とはいったいなんだったのだろうと考える。そのときに、百人のうち九十人くらいは頭が真っ白になってあのとき自分がなにを考えていたか分からなかったということを異口同音に告白するでしょう。/だが、それが文学者として許せないわけです。あの状況、あの空間に自分はいったいどう生きていたのか。それを見つめようとするためには、遠ざかろうとする記憶を一つ一つしつこく、また粘っこく追いかけて行ってははがいじめにして引き戻さなければならない。(p.158)

日本では敗戦か終戦かも曖昧で、植民地もなければ中国人も殺していないなどと平気で言う人たちのいるなかで、自分はどうあるべきかを常に考えていた人だったと思います。(p.293)

現在の非常に抑圧された言論的状況・政治的状況のなかで、自分が日本人として戦争をどう認識し、どう責任を果たしていくか。戦争には被害もあれば加害もあるのであって、決してどちらか一つではない。また、直接戦争を経験していない私たちの世代に日本人としての責任はないのかといえば、決してないとは言えない。
そのようなことを考えさせてくれる一冊である。

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