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あの日の出来事が“思い出”になってしまってる〜わたしの3.11体験

このnoteではわたしの3.11当日の東京での体験を綴っています。不快に思う方がいらっしゃるかもしれません。なぜかというと、わたしのなかであの日のことが“思い出”になっているという事実を書こうと思うからです。

わたしの直接の知り合いのなかに、3.11による地震、津波、原発事故の直接の被害者(命を落とす、移住を余儀なくされる、健康的あるいは経済的な不安を強いられるなど)はいません。
復興の問題、原発の問題、まったく解決していません。未解決の問題とともにこの10年をずっと日本で暮らしてきたにもかかわらず、当事者意識が希薄だという問題をわたし自身が抱えてきています。

どうしたら自分事として3.11を考えることができるのか。10年経ってもわかりません。だから、noteを動機づけとして考えるために書いてみようと思いました。当日目にした映像のことも書いています。見たくない人は、これより先は見ないようにしてくださいね。自分大事に。


わたしの3.11体験

2011年3月、わたしは大学3年の春休みを過ごしていました。前年10月に就職活動が解禁になり、セミナーに参加したり自己分析したりエントリーシートを送ったりSPIの勉強をしたり、しんどいなぁやりたくないなぁと思いつつ、ぼちぼちやっていました。

3月11日は午前中に就職の面接がありました。昼過ぎから大学のある御茶ノ水のマクドナルドに友だち3人と集合して、就活の対策を何かしらやろうという約束をしていた。いったん帰宅して、リクルートスーツを普段着に着替えてから向かうことにしました。

いつものように丸ノ内線で御茶ノ水駅に降り、楽器屋が軒を連ねる明大通りをくだると右手にマクドナルドがあります。(2015年に閉店して今はマツキヨになっていますが)
わたしが着くと、2人がもう来ています。安心するいつもの顔ぶれ。昼どきだったのでまずは食べることにしました。そうこうしていると最後の1人がきました。4人揃ったね、というちょうどそのタイミングで地面が揺れ始めたのです。

揺れ方が尋常ではないと直感しました。短めの初期微動があり、すぐに強い縦揺れが始まりました。震源が近いかもしれない。フライヤーのすぐ近くのボックス席にいたので、火事になるかもしれない。とりあえずバッグだけ持って店の外に出ました。道を挟んで向かいに建っていた高めのビルが、ガラスが飛び散りそうなくらい左右にユッサユッサと揺れていました。来たるべき大地震がついに来たのかなと思った。

一度マクドナルドの店内に戻り、テーブルにひろげていたノートやペンなどを回収しました。マックは先に払うシステムなので外に出るのは簡単です。そうじゃないお店にいた人とか、どうしたんだろう。

震源はどこなのか。被害状況は? 電車や地下鉄は当然止まり、御茶ノ水駅もシャッターをおろしています。わたしの実家は海からそう遠くないところにあります。家族の職場もほとんど海に接しているようなところです。スマホで電話をかけてみても、つながらない。電波は取り合いでした。家族の安否が心配だし、自分の無事も知らせたいけどどうしようもありません。

仲間の1人が「とりあえず今日は帰れないかもしれないし、食べ物を買いに行こうか」と言ってくれたので近くのコンビニに行くと、すでに棚はほとんど空でした。

大学の裏に錦華公園という夏目漱石ゆかりの公園があります。そこへ行ってみると、普段では絶対にありえない数の人がいました。

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この時点で16時。あの地震は14:46だったよね。

ここにいても仕方がないので、とりあえず明治に行こうということになり、リバティタワーの2階の教室に入りました。
2階にあるのはそこそこの大教室です。4人で座っていると、大学の職員なのか人がきて、教室のモニターにテレビの画面を映しました。津波の映像でした。

震災直後、編集が十分でない生なましい映像が繰り返し繰り返し流れていました。車が袋小路に追い詰められて、背後から濁流が押し寄せる。あの車には誰が乗っている? テールランプが点いてる…。
切り替わって、膝まで水に浸かった人が何か叫んでる。あの人はこれからどうなるの?

そんな、まるで現実味のない、地獄のような映像をもう見ていられないと思ったわたしたちは教室を出ました。その後、日大に移動しました。水と非常食が配られているとのことでした。
日大に通う友だちは、大学で何人かの知り合いにも会って情報交換をしていました。電源を借りてスマホを充電させてもらい、母にかけた電話がつながった。茨城に住む祖母も無事、近しい親戚もみんな無事とのことがわかり、胸をなで下ろしました。同時に、自分だけこんな安心していていいのかと罪悪感にも苛まれました。

もうすっかり日は落ちている。近くの居酒屋が、飲み物だけ提供している(ガスが止まっているので料理ができない)とのことで、時間を潰すことになりました。自分はここで何してるんだろう。何が起きてこれからどうなるんだろう。就活はどうなるのか。あたまは混乱し続けます。でも、友だちと一緒にいるという心強さでその時は何とか気持ちを保っていました。

深夜近くなり、都心部の地下鉄が一部運転を再開しました。4人のうち、1人は家にたどり着けるということで帰っていきました。もう1人は友だちが泊めてくれるということで、そちらへ行きました。わたしと残ったもう1人は、とりあえず池袋まで出て、その先は私の家まで歩こうということになりました。

わたしが当時住んでいたのは池袋から地下鉄で5つ目のあたりでした。ひたすら歩いて、歩いて、マンションに着くころには空が白み始めていました。疲れ果てて、とりあえず寝ることに。
目が覚めると、一緒にいた友人は電車が動き始めたみたいだからと千葉の実家へ帰っていきました。

部屋でひとりぼっちになったわたしはあまりにも心細くてツイッターに自分の心情を綴ったり、テレビをつけては消し、消してはつけてを繰り返していました。あの頃ツイッターがあってほんとうによかった。タイムラインに心細い人たちが集まって、ひとりはしんどいからと友だちの家に集ったりしたなぁ。

そうやって、3.11当日とその後の数日間が過ぎていきました。

震災翌日からは、各地の被害状況が明らかになり、死者・行方不明者の数がものすごいスピードで増えていきました。新聞の一面を見るのが怖かった(10年前はまだ新聞を読む機会が多かった)。
そして原発事故関連の会見や、計画停電など。メンタルケアを呼びかけるアナウンサー。エントリーシートが通り、選考の段階が進みつつあった企業の採用活動もすべてストップしました。
大学の授業開始も、4月下旬まで倒れたように記憶しています。明治は再開が比較的早くて、5月、ひどいともっとずれ込んだ大学もあったんじゃなかったかな?

これは、紛れもなくわたしの人生で起きたひとつの大きな出来事であり、10年が経とうとしているいまは“思い出”です。存在感がものすごい。

毎年3月11日が来るたびにこの一連のことを思い出すので、死ぬまで忘れることはないでしょう。けれど、ほんとうにしなくてはいけないことは、今も続く「震災後」をどう解決するかということなんだろうと思います。
10年目にしてわたしはやっとスタート地点に立てたような気がします。ここまで読んでくださった方がもしいたとしたら、お礼をいいます。どうもありがとう。


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