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映画レビュー「スクロール」

北村匠海、中川大志、松岡茉優、古川琴音。キャストに惹かれて友人と観た映画は、最初こそ「どうしよう、これ大丈夫かな」と心配になったものの全体的におもしろかったしいい映画だった。


生きてる意味のことなんて今は考えもしない。生きている、それだけで十分だと思ってる。けど20代の頃は取り憑かれたように考えていた。
だれかといるときその場を楽しむことはできても、部屋に一人きりになると自分の凡庸さに落ち込む。
ネットの海につまらないことばや文章を投げ入れる。一人のフォロワー、ひとつの「スキ」。これだ!ということばを綴ったつもりでも、だれかに響いた手応えはない。満足なんてできなかった。

「スクロール」に登場する4人の若者。
大学時代の友人である「僕」とユウスケ。
そして「私」と菜穂。
「僕」と「私」は職場の同僚で、パワハラ上司コダマの元ではたらいている。ユウスケはテレビ局に勤めており、菜穂は役所勤め。
この四人の交錯具合は巧妙に描かれており、「僕」の再生を主軸に、ユウスケの再生の予感もまた描かれていた。

そう、わたしはユウスケがいちばん気になった。
仕事を卒なくこなすが自分の「やりたいこと」はない。
女性を取っ替え引っ替えするが「だれとも付き合ったことはない」。女を狂わせている自覚がない。
いっぽう、いつも一人ぼっちでいた仲間を写真に入れてあげるような(おそらく無自覚の)優しさを持っている。その友人が自殺した。「森」という名前を見ても、だれか思い出せない。自分が森とどういう関係だったか思い出すことができない。

ユウスケは森の電話を取らなかったことで、彼の自殺の原因の一端が自分にあったのではないかと苦悩する。
そんな経験から菜穂の「死ぬから」のメッセージを放っておけず、急いで帰宅する。バーで初めて隣りに座った菜穂に「自分が生きてる理由を見つけることに成功したら結婚しよう」と酒に酔ったノリで言ったこと、それがこんなにまで菜穂を狂わしてしまったこと。
ユウスケが菜穂を拒絶しながらも、悪いのは全部自分で菜穂はまったく悪くないと言ったのは、もしかするとユウスケが初めて自己と他者の関係について考えた瞬間かもしれないと思った。
だから、この映画では描かれなかったけれど、ユウスケの再生もまた予感させるところがいいと思った。

古川琴音が演じた「私」は、四人のなかではもっとも個の立ったキャラクターだった。
会社を辞めてフリーのイラストレーターになること、友人に「意見求めてないから」と臆さず言うこと、フリーになってはじめての仕事を完成させること。さらに、「僕」に小説を書くことを後押しし、原稿を知り合いの編集者に見せようと提案するところ。

冒頭のよくわからないシーンは「僕」が書いた物語だった。森と自分を重ね合わせながら、もう少し生きていくことにした自分を呼ぶ者としてユウスケを登場させる。そして「私」の描いた作品の前で写真を撮る。

「僕」はユウスケを恩人だというが、ユウスケにとっても「僕」は恩人になるだろう。

感想がまとまらないのは、映画に散りばめられたたくさんの要素のどれもが捨てがたいからだろうと思いつつ、鑑賞後すぐの感想として綴っておく。

【追記】この映画の大メッセージは「社会」なのだろうなと、ふと思い出した(笑)。若者が社会の一員としての自覚に芽生える話、といえるのかな。


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