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共同体

前回投稿の幸福度の続きとなります。

前回、日常の不幸感を取り除けば、幸福感しか残らないということを書きました。

そして、その幸福感を持続させていくことが、幸福度の尺度になるのかもしれません。

幸福感を得るために、多くの場合では、普段から幸福になれるであろうことを足そうとします。

これは、今あるものではなく、ないものを足して、不足分を補うという考え方です。

『今あるものに目を向けましょう』と感謝できることを探したくても、なかなかできない時、それは不足分の方に目が向いているのです。

人は不足や欠乏の状態=不幸、と感じやすく、
満たされている=幸福、と感じられると、

『思い込んでいる』だけかもしれません。

実際、不足や欠乏しているものがあっても、幸福感に影響がないことは多くありますし、満たされていてもすべての人が幸福だと思うとは限りません。

それらは周囲や他者との比較で生まれる苦悩で、それぞれの存在が本来ならそれだけですでに満たされて、完結されているのも関わらず、

不足しているとか欠乏している、と考えてしまっているのかもしれません。

もちろん、だからこそ、その足りないであろう部分を補うために努力したり、向上するために日々成長を促すのは良いと思います。

しかし、補うための努力の動機が
『誰かとの比較したから』なのか、それとも
『自分の成長のため』なのか、によっても大きく変わるでしょう。

誰かとの比較であれば、その動機は不安であり、執着、
自分の成長のためであれば、その動機は愛であり、解放です。

愛と不安は表裏一体で、互いを支え合う感情ですから、どちらかを選択するかはその人次第でしょう。

不幸感を取り除いたら、実は幸福感しか残らないのであれば、本当は何もしなくても、すべての生命は幸福で、祝福された存在です。

存在するだけで、実は幸福で祝福された存在であるのに、そのことを忘れてしまったり、自分が信じられなくなったり。

他者との比較の中で、不足感や欠乏感を補うために、足し算をし始めた時から苦悩は始まります。

それをエゴ(自我)とか欲求と言うのかもしれません。

この人間のエゴや欲求は手放すことが出来ないものであり、生まれながらにして自動装備されているのですが、

それが苦しみの原因だと理解している古来の宗教者たちは、それを断ち切ることが必要だと考え、修行によってそれらを取り去ることを追求していたのでしょう。

不要な物であれば、生命に自動装備されることはなかったでしょう。
しかし、人間に備わった装備は、生きるために確実に必要だからだと思います。

ただ、それによって苦悩や苦しみが強くなりすぎる時、小さくすることは可能かもしれません。

まずは受け入れること。

そして、不幸感を感じる言葉を口に出すことや、考える時間を出来るだけ減らしていくことは、一つの有効な方法かもしれません。

また、言葉にしたり、目にするのことを減らし、トリガーとなる機会を作らないことも必要でしょう。

不幸感を感じることから、遠ざかったり、環境からいっそのこと離れてしまうこと。

出家するなど、俗世間から身を離し、同じ思想を持つ者同士が集まって修行を行うというのはそういう意味もあるのかもしれませんね。

実際、家族や友人、グループを構成している要素を考えると、似ているものを持ち合わせている事も多くあるでしょうし、同じ成長目的を持って集まっている可能性もあります。

それらは学校のようなところだと考えれば、成長の段階に応じて、グループから卒業したり、別のグループに移動することを繰り返しながら、

それぞれの成長に必要なところに集まるのでしょう。

人は誰でも一人です。
今は同じグループにいたとしても、そのままずっと一緒に居続けることは出来ません。

不幸感から離れるということは、執着(不安)からの解放、愛にも繋がります。

何ものにもとらわれず、解放されたとき、そこに残るのは幸福感、ただそれだけなのかもしれませんね。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!






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