私という在り方
いらないものを手放しましょう。
自己啓発本ではたいていそのように書いてあります。
私も今までは、必要がないものや合わないものは捨てていこうと思っていましたし、そのように書いたこともあります。
物理的にもじゃんじゃんいらないものは手放してきました。
ただ、最近感じたのは、嫌だと思うことほど、なぜか人はずっと手放せず持ち続けているということです。
嫌な記憶ほど、すぐに忘れたいのに、何度も何度も記憶がよみがえり、繰り返し感情を味わうことになります。
一日も早く忘れたいし、手放したい。
前回投稿では、手放さないでそれを愛するという内容を書きました。
ですから、私はもう手放すことは考えていません。
ただ、もしも手放したくても手放せないということで悩んでいるのだとしたら、こうも考えてみてはいかがでしょう。
嫌だから手放したくないのではなくて、実は大好きだから、大切だから手放せていない。
むしろそれをとても愛しているから離れられていないのではないかと。
いや、そんなはずがないと思うかもしれません。
ですが、よく思い返してみると、
現実でも、嫌なものは無理やり口に入れないし、何でも食べて良いと言われたら、好きな食べ物だけをしっかり手に握っていると思うのです。
また、好きな食べ物をいきなり禁止されたからと言って、それをすぐに嫌いになることはないでしょう。
それどころか、抑圧されたことによってより一層渇望してしまったり、手放さないように意固地になってしまうこともあります。
場合によっては、そうは見せていなくても、隠れてこっそり持ち続けてしまうことや執着することもあると思います。
なぜなら、やはりそれを愛しているからです。
認めたくないだけで、ダメと言われるほど余計にもちたくなる。
禁止されればされるほど魅力的に感じたり、ロミオとジュリエットではないですが、求める気持ちが強くなります。
だから、一度それを認める必要があるのです。
私は○○を愛していると。
それが怒りやネガティブな感情であっても、苦しい現実や、変えたい人生であってもです。
感情でいうなら、今は感情を抑えたりコントロールして、アンガーマネジメントできる人がいいと思いますよね。
こちらがそのつもりはなくても、言い方や態度によっては相手を傷つけてしまうことがありますから、怒りたい場面でも優しく優しくと思うこともあるでしょう。
確かに、その場で感情を爆発させて、周囲を驚かせたり、むやみに傷つけたりしなくても相手に伝える方法はいくらでもあります。
やり方は考えないといけません。
ただ、勘違いしてほしくないのは、怒りだったりネガティブな感情は決して悪者ではないということです。
そもそも感情を手放すことはできないし、抑圧したりする必要もないのです。
ですから、出来事によっておこる感情を、とにかくめいっぱい感じ切るのです。
そして、その感情から逃れられない、手放せないのは、出来事によってではなく、起こる感情をとても愛しているからであることを一旦認める必要があります。
私は、普段の生活の中で、全然ダメな部分をとてもかわいいなと思います。
ダメな私がいる、その一方で誰かを助けたいとか、助けることが出来るような面を持つ私もいます。
その二面は表裏一体で、救ってほしい思う私と、救いたいと思う私ですが、
そのどちらも同じ人間でもあり、そのどちらの姿も私は愛しています。
ですから、どちらかだけを選ぶことはできません。
私は社会や他の人の役に立ったり、何かできることがある自分をかっこいいと思っていました。
ですから、そのかっこいい私が好きなのです。
その反面、弱くて人の手を借りないと生きることが出来ない、ちょっとダメな私も、実は密かにとても好きだったのだと気が付いたのです。
今まではかっこいい私を誇りに思い、さらに向上しようとしていましたから、ダメな私のことを見ないようにしたり、ひどく嫌っていました。
なぜなら、成長しないといけないと思い込んでいましたから、まさかダメダメで人に迷惑をかける部分をかわいいとか、そういう自分にもOKを出すなんてあまり大きな声では言えません。
ただ、それは世間的にそうしていただけで、本当はどちらの私も好きだったのです。
その両方の面に気が付いた時、私はとてもバランスが取れるような感じがしました。
そして、もうどちらかを行ったり来たりすることもなくなりました。
どちらが欠けても私ではなくなるし、手放す必要はなかったんですね。
もうどちらかに執着する必要はないし、両方持ってていい。
もしかしたら、救われたい私も救いたい私も、どちらも私ではないのかもしれません。
芸能人のキャッチコピーや、商品のブランディングのように、私はこのような人です、とセルフプロデュースした二つの面だとも考えられます。
私という在り方を、決めつけてそのようにふるまっていただけかもしれません。
私達はなんにでもなれるのです。
救われたい姿でも救いたい姿でも、なりたい時になりたい姿になれるのです。
ですから、手放すとしたら、どちらかの一面を手放そうとするのではなく、両方を見て、私という在り方はこうだ!と決めつけようとすることを手放せばいいのではないのでしょうか。
そのためには、まずすべての面を好きになることです。
そして、大切にすることだと思います。
それが、私の在り方です。
今日もお読みいただきありがとうございます!
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