見出し画像

かぶりもの

人間関係について。

先日、周りの人との対応について考えていました。

もちろん、基本は誰に対しても感謝を土台に、とは思うのですが、中には嫌だなと思うことをされたり、言われたり、また相手の年齢によっては言っていいことと悪いこともあると思うので、対応の仕方も変えなければなりません。

自分がしてほしいと思うことをベースにしているとは思いますが、やはり相手によっては、自分が好きとか嫌いというものがあり、それによっても自分は対応を変えていたりすることもあるなと感じていました。

例えば、相手の人が自分から見た時はととても嫌な人に見えたとして(主観)、その一方で自分から離れたところではとてもいい人だったりするかもしれなくて(客観)

自分の対応というのは、あくまで自分が知っている限り、目に見える範囲の相手の一部分を切り取って、そこに反応しているだけかもしれないと思うようになりました。

ですので、自分の主観で相手を判断し、その知っているほんの一部だけをみて、
『あの人はこういう人だ』

と、判断しているに過ぎないと思うのです。

だからと言って、相手のすべてを見るというのはなかなか難しいと思います。

いきなりハートがオープンですべてをさらけ出せる人ばかりではないですし、さらけ出さないことを美徳と考えている人もいるかもしれません。

自分というものを、誰にでも大きくアピールできればいいと思いますが、それすらもよく見られたい自分だけを見せている可能性もあります。

ですので、
すべてにおいて相手をしろうとしなくてもいいとは思いますが、自分が認識している一部分が、相手のすべてではない、ということも知っておいても良いかもしれません。

私はやはり基本的にはたくさん話をすることが必要なのかなと思います

なぜなら、その中で自分が切り取った一部分だけではない、相手の良いところがたくさん見えてくることもあるからです。

相手はこのような行動をとる、だからこういう人なのだろう。

というのは、あくまで自分の今までの記憶や経験に基づいて勝手に作り上げた人物像である可能性が高いということです。

ですので、自分の判断材料や作り上げた人物像だけを見て、勝手な虚像を作り上げるのではなく、

実物をしっかり見るということをしたほうがいいと思いました。

そのうえで、相手が何を思い、感じ、どういうときに喜び、悲しみ、何を大切にしているのかを知ることで、

自分が勝手に作り上げてしまった虚像をぶっ壊し、本来の相手の姿に近づくと思います。

そして、たくさん話をすることはとても大切だと思います。

以心伝心、心でつながるということもありますが、そこに自分の客観的な見方を入れないこと、自分の要望、例えばこのような人であってほしいとか、こういう人は嫌いといったエゴが全くない状態であるという条件も必要で、その条件を満たすなら心だけでつながることも可能かもしれません。

しかし、できる人はほとんどいない、というか、人間にはエゴがあり、それをなくすことは難しいので出来ないでしょう。

ですから、
察してほしいとか、長年一緒にいあるのだからわかるはずとというような、言葉にしないで相手に要求する行為は、

自分の事も伝えようとしていないし、相手のことも知ろうとしていない、心を閉じた状態で、自分にも相手にも心を開く行為をやめてしまっているのかもしれません。

ですので、相手を知ろうとすること、自分の事を伝えようとすることは、例え近い友人や家族であっても、し続けることも必要でしょう。

で、始めに戻り、どのように対応すればいいかですが、
私は相手も自分だったらどんな言葉をかけてもらいたいかなと思いました。

もしも挨拶するときに、緊張してしまう相手だったとします。

その相手が実は私と同じ顔だったらどんな挨拶になりますか。

リラックスしてる?
適当な挨拶になる?
心を込めて言える?

後は、普段様々な人と話すとき、相手が自分の顔をしていたら、私は私にどんな言葉をかけてあげるかなと思いました。

相手を見るときに、主観的に見てしまっているように、自分に態度もどこか主観的になってしまって、

この人には私のこの一部分を見られたい、この側面を見られたい、という風に、自分自身も相手に出し惜しみしている可能性があるのです。

中には、相手が偉い人、一緒にいたい憧れの人だったら嫌われないような自分を出すでしょうし、そうではなければ、別に嫌われてもいいというような嫌な態度を自分もとっているかもしれません。

ですので、相手がすべて自分の顔だったら、私はなんて答えられたいか考えてみるのも良いと思うのです。

どんな声掛けをされたいか。
どんなふうに扱われたいか。

そのようにイメージしていくと、
相手に対して過度な緊張や、気を使いすぎること、無理な要求にこたえようとしないせずに、自分の気持ちを落ち着いて伝えられるようになります。

そして、相手がわたしの顔をしていたら、私の場合は、

いつも頑張っているね
大丈夫だよ
そのままでいいんだよ
大好きだよ

って声をかけてあげたいなと思いました。

人と話すとき、または対応しているとき、どこか相手が主になっていて、それに自分を合わせに行くような感じがありました。

そうなると、自分は常に受け身の形になり、8:2ぐらいの割合で、誰かの言動8に対して、2反応しているような感覚がありました。

しかし、相手が自分の顔をしていれば、いつもリラックスした状態でいられるし、当然5:5です。

前回、
人間はここの存在ではなく、地球という一つの生命体の、一部分という話を書きました。

もしかしたら、私とかあなた、というものは本当はなくて、すべてが私であり、すべてがあなたなのかもしれません。

切り離された存在と考えてしまうから、争いや競争が起きるけど、本来あなたが手で私が足だったら、

どちらが欠けても痛みが伴うし、それぞれの役割が違うだけで、競争も争いも起きるはずがない。

だから、なかなかそう思うのは難しいかもしれないけれど、たくさんの人と話しているのも、自分の中の私がしらない部分を、相手が見せてくれて教えてもらっているような気もするのです。

そう思えれば、すべてを認められるし、すべての役割を信じられる。
すべてを愛することもできる。

そのように思ってみるのはいかがでしょうか。

もしかしたら、相手のかぶりものをとったら、みんな私の顔をしているかもしれません。

そんなたくさんの自分に、あなたならどんな言葉をかけてあげますか?

今日もお読みいただきありがとうございます!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?