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美しいということ

物事の判断基準を考えるときに、私はよく『良い』『悪い』ではなく、『美しい』か『美しくない』かで見ることがあります。

倫理観は人それぞれですので、犯罪に至らなかったり、法に触れなければ何をしても良いと思う人もいれば、故意ではなかったしても嘘をつくことや、相手を傷つけてしまったことを深く悔やんだり、そのような生き方をできるだけしないように生きている人もいます。

自らの生き方や、人生の価値観を相手に押し付けることはできませんし、自分がすべて正しいと言い切れるものは何もありませんから、正直、私もいつも『これでよかったのか』と、あとで考えることがしょっちゅうあります。

今までできたと思えることもたくさんありましたが、結果として、たまたま成功しただけのやり方が、すべてにおいて通用するとは思えない。

また、それを持って『私についてきなさい』と周囲に言えるほどの絶対的なものもありません。

ですから、人生の指針を考えた時に、『美しい』か『美しくない』かは私の中での判断基準の一つになりました。

例えば、一般的な花を見た時に多くの人が『きれい』『可愛い』『美しい』という表現をするでしょう。

花が美しいのは、その心そのままが美しいから、と言います。
無条件の愛を持った花は、心がとても美しいのだそうです。

そして、美しい花を見た時に、それによって心は穏やかになったり、こちらまで澄んだ気持ちになることが多くあります。

そういう気持ちになることを判断基準にしているのです。

外でゴミやたばこのポイ捨てをしたときに、良くないことだと思う人もいれば、それをしても何にも思わないという人もいると思います。

実際、ゴミもたばこのポイ捨ても無くなっていないのであれば、一定数は
『それをしても、自分には何の支障もない』とか
もしくは
『捨てても何にも思わない』
という人がいるということです。

ですが、その心はどうでしょう。

何にも思わない、という感覚はあっても、ポイ捨てすることで心が晴れ晴れとし、自分を好きになれるような感覚や、美しいものを見た時のように、心まで清らかになるような気持にはならないと思います。

どちらかというと、その真逆な気持ち、もやもやしたり、気付かないうちに鬱積していく感情や、自己否定など、それらを少しずつ発生させ、蓄積していることにも気が付いていない可能性があります。

ですから、法に触れていないし、誰も見てはいないけれど、心が落ち着いたり、清らかにならない。
それどころか堂々とできなかったり、それをする自分を遠くから見て美しい姿だと思えない時は、やめたほうがいいのかもしれません。

美しいと書くと、見た目や容姿が整って端麗であることや、環境に恵まれ、優れた才能を持っているようなことをイメージされると思いますが、そうではありません。

懸命に努力することや、向き合う姿勢、誠実な心を、私はとても美しいと感じます。

むしろ、泥臭く、生きている姿にこそ美しさを感じることがあります。

その中で、心だけは清らかさを失わないことや、そういう姿を目指して生きることが私にはとても必要で、そんな風に生きられたらいいなと思っています。

ただ、やはり人間ですから、美しい生き方がしたいと思ってもできないことは多くあります。

例えば、叱りたくないと思っていても、怒らなければいけいこともあるでしょう。

生活の中でも、周囲に八つ当たりをすることが美しくないとわかっていても感情を抑えられなかったり、

自分の弱さやふがいなさを周りのせいにしてしまったり、向き合うことから逃げて、誰かに責任を擦り付けたりしてしまうこともあるでしょう。

書いていて、私にも心当たりがありありすぎて、呼吸困難になりそうなぐらい胸が苦しくなります(笑)

本当だったら、それをする前に一旦心を落ち着かせて、
それは『美しくない』からしないでおこうと思えたらいいのですが、そうできることばかりではありません。

ですから、その後でいいので、考えてみる習慣をつけてみるのです。

あの行動は果たして美しかっただろうか、それをすることで、心が晴れやかになり、清らかな気持ちになっただろうか、と。

たいていは、あんなことしなければよかったとか、心が清々しくなるどころか、自己嫌悪に陥ることも多いでしょう。

ただ、それに気付けているのであれば、もう一歩踏み込んでみます。

それをしたところで、気持ちが晴れることも、清々しく、自分を好きになれることもなかったのであれば、

心に爽やかな風が吹くような美しいことを増やし、そうは思えない美しくないことを減らせばいいだけなのです。

物事の判断基準に『良い』とか『悪い』とし瞬間に、どうしても集合意識や、イメージから罪とか罰も絡んでくる場合があって、

誰かの言う『良い』ことをすれば褒められて、誰かの『悪い』ことに抵触すれば、罰を与えられるみたいな感じがあるかと思いますが、

『美しい』と『美しくない』での選択であれば、必要以上に自分を責める気持ちは湧いてこないですし、美しくないのはなんだか違うなとか、自分に似合わないなと思えば変えればいいだけなので、周囲の人にも正義の拳を振りかざす必要もなくなります。

ちょい悪というか、ちょっと悪いことをしている人を見て、真似てみたいとか、そういう人を見てかっこいいと思って魅力的に感じる人もいると思います。

不良に憧れるみたいな感覚でしょうか。

ただ、それと美しさは少し違うかなと思います。

ある意味でどこか刺激を求めていたり、自分にはできそうにもないことをしている人を見て、そうなりたい気持ちになるみたいな感じもあるかと思いますが、やっぱりその時の心は波が立つというか、

そのちょい悪な憧れの人のまねをしても、興奮したり躍動はするかもしれませんが、心が洗われたわーとはなりにくいかもしれませんね。

優しい気持ちになったり、心が清らかな気持ちになるときは一体どんな時かを考えてみたり、その気持ちになることを増やすにはどうしたらいいか、考えてみるのもいいかもしれませんね。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!




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