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熊本・島原・長崎旅行(5):長崎観光

【前回】熊本・島原・長崎旅行(4):雲仙と長崎の夜景|R-9|note

長崎の朝

4泊5日の旅、最終日。前日の不安定な空とは打って変わって穏やかな快晴。同行の友人が手配してくれたANAクラウンプラザホテルは、ちょうどグラバー坂に面したところにあって、徐々に目覚め始める長崎の朝の様子がテラスからうかがえてとても良かった。あとで分かったことですが、日中は、土産物屋が立ち並ぶこの坂がツアー客や修学旅行生でいっぱいになる。

今回の旅では結局、熊本~長崎の4泊いずれもで各自治体の全国旅行支援が適用できて、トータルで正味3万円ほど割安で済んだのではないかと思います。もともとエコノミー志向の旅だったとはいえ、この額はかなり大きい。制度の取ってつけた感や不平等さには思うところもありますが、今回に限ってはありがたかったです。

最終日は、朝から軍艦島上陸ツアーへ向かう友人グループとは一旦分かれて、再びソロ旅。路面電車に揺られて目的地を目指します。熊本でも長崎でも、路面電車では地元で使っているモバイルSuicaが普通に使えて、なおかつ複数系統の接続がある長崎なんかだと交通系ICを使えば乗り換えも簡単で、便利だった。

長崎の路面電車は「長崎電気軌道」という会社が運行しているんだって。かっこいい名前。車内の設備も古~い日立のロゴが見えたりして、なんだかレトロなのだ。車内アナウンスでは、バスみたいな停留所の案内に続けて、同じ声でお店の歌を歌い出すみたいなローカルっぽいユルさが良かった。

長崎原爆資料館

着いたのは長崎原爆資料館。旅行計画を立てる際に、長崎で行ってみたい場所の候補を挙げてみたところ、自分のなかでまず平和公園と、この原爆資料館が思い浮かんだ。

3系統の電車で、その名も原爆資料館という停留所があり、そこから坂を上って10分くらいだったかな。料金を支払って中に入ると、大きな螺旋状のスロープを下りながら壁に書かれた西暦の数字を遡っていく形になっており、1945と記されたところで順路が始まる。

原爆投下時刻で止まった掛け時計

館内は基本的に撮影自由なのですが、まあ撮影しようという気が起きる感じでもなく…。これはやはり見ておいてよかった。なぜ広島に次ぐ投下地として長崎が選ばれたのか。原子爆弾の熱線・爆風・放射能によって、今いる長崎のどこでどういう惨状がもたらされたのか。端的に地獄と表現して余りある、痛ましくも生々しい原爆被害の様子を、所狭しと並ぶ遺物や写真、記録映像が雄弁に物語る。

見たからといってわたし個人がどうこうできる話ではない。ないんだけど、これはこの旅において地震被害を受けた熊本城や、雲仙島原の噴火災害の展示で見てきたことと同じで…忘却や風化に抗い、今後何世代を経たとしてもなお記憶し続けることが大事なのだ。個を超えた集団としてのレイヤーで見れば、集団記憶を保持し続けることこそが唯一取り得る具体的にして有効なアクションなのだと思います。歴史とはきっとそういうもの。

平和公園

資料館から平和公園までは歩いてすぐ。爆心地のまさにその地点に建てられた黒いオベリスクの前では、校外学習の一環とみえる小学生の一団が集められて、代わる代わる作文を読み上げたり歌を歌ったりしている。

その先の平和公園をずっと奥まで歩いて行くと、例の像がある。ここでもやはり子供たちが揃って歌を歌わされたりしていて、平和教育ってそういうものなのか…? と思ったりもするんだけど、そういう感じみたい。そういえば資料館でも、カメラを向けられてテンション上がっちゃった子がピースサインをして引率の先生に諫められている場面を見たけれど、まあ子供に教えるのは難しかろうと思う。わたしがこの日得た共感らしきものの手ごたえ、手触りも、この年齢になったからこその部分があると感じる。

裏から見たことなかったね

浦上カトリック教会

平和公園のすぐ東側には、爆心地の近くで大きな被害を被った浦上教会がある。距離的には近いものの、公園から大きく見下ろすような形になっていて、山を背にした教会の長崎らしい風景が一望できました。

教会内は撮影不可であるものの一般客の観覧はできて、シンプルながらも美しいステンドグラス、そして有名な被爆マリア像を見ることができます。

ここ長崎の教会といえば原爆被害の他にも、16世紀の二十六聖人の殉教、続く時代の苛烈な隠れキリシタン弾圧と信徒発見の歴史があり、そうした暗い記憶とは切っても切り離せないところがある。信仰がなくとも、数々の資料を前にして、長崎の人々が辿ったできごとの一端に触れることはできました。

午後になり、港のほうへ戻って友人たちと合流。ランチはあごだしの効いた美味しいうどんを食べた。それから、帰りの飛行機まではまだひとしきり時間があるため、もう少し市内を観光していくことに。

歩いていると、道端のあちこちに「○○発祥の地」みたいな碑が立っているのを見かけた。国際交流の先駆けとして、文化トレンド発信地であったことを誇りに感じている人が多いのかな。あとで寄るグラバー園で「西洋料理発祥の地」という碑を見たときは、さすがに西洋料理発祥の地は西洋じゃんと思ったものですが。

古い港町なだけあって、町の雰囲気としてはどこか地元の横浜と似ている部分もなくはないのですが、やはり長崎はどこか影を帯びていて、それが独特の味になっている。

大浦天主堂

いったんホテルの近くまで戻り、修学旅行生ひしめく坂を上って大浦天主堂へ。1865年、宣教師が禁教の地日本で隠れた信徒を「発見」したという信徒発見の舞台であり、国宝および世界文化遺産となっている教会です。

直線的な、堂々たる白亜の教会で、薄暗い聖堂内には左右のステンドグラスから色とりどりの外光が降り注いでいました。周辺施設も含めて、日本におけるカトリック受容史の資料館のようになっていて、今では当たり前のように思われている信仰の自由を獲得するまでに、長崎の人たちがいかな戦いを経てきたかが概観できる。あいにく、細部までゆっくり観覧していく時間はなかったのですが、それでも学ぶところがあった。帰ってきてからいろいろ調べましたね。

グラバー園

19世紀以降に長崎に住んだイギリス人商人のグラバーさんらの邸宅を移築し、庭園として公開しているグラバー園は、大浦天主堂の目と鼻の先。園内の長いエスカレーターで坂のてっぺんまで行くと、ちょうど昨晩、鍋冠山の夜景を観に行く途中で立ち寄ったあたりの高台に出る。まあ美しいところ。

お庭もさることながら、邸内の調度品から何から、当時の面影を残すものがたくさんあって、好きな人にはたまらないのでは。

コテコテの洋風建築のようでいて、瓦にはしっかり三つ巴があしらわれていたりして、見ればなかなかの和洋折衷加減におもしろみを感じた。そして、なぜだかここにもネコちゃん。最初置きものかなんかだと思ったよね。

長崎空港、東京へ

そんなこんなで、帰りの飛行機の時間も近づいてきたことで、荷物を拾って移動。長崎市内から長崎空港のある大村周辺までは、地図で見るとだいぶ距離があるんだけど、直通のリムジンバスがそこそこの本数出ており、高速に乗ってしまえばあっという間でした。移動は電車よりもバスのほうが相当楽なはず。

空港に着くころにはすっかり日も落ちて、5日間、最終日まで遊びつくしたなという感じです。

振り返ってみれば、熊本、島原、長崎をちょうど東から横断するような形で移動してきて、それぞれに違った街の様子を実際に歩いて体感できたし、当初のんびりとした休暇として想像していた旅よりも、密度の濃い時間を過ごすことができました。とにかくよく歩いた。

ここ数年、長く遠出できない期間があり、しかもこの8月あたりは暑さと感染状況とでほとんど籠りきりだったこともあって、知らない土地で初めての風景に出会い、久々に満たされた思いです。結局、帰ってきてからひと月以上経ってしまったものの、こうして記録をまとめることができて良かった。次はどこへ行こうかな。

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これまでの旅行関係の記事は「旅」マガジンにまとめています。


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