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考えることを忘れてしまっている現代人

あなたは一日の中でどれくらい考えることに時間を割いていますか?「考える」ってどういうことでしょうか?このマガジンの読者のあなたならば「私はいつもいろんなことを考えている」と思われるかもしれません。でも少しお付き合い下さい。

あらゆる情報がいつでも手に入る現代。実は私たちは考えることをしなくなる危険と常に背中合わせなのです。

あなたの周りの「賢い人」を思い出してみてください。誰かいますね?あなた自身でも構いません。ではその「賢い人」はなぜ賢いのでしょうか?なんでも知っている物知りだからでしょうか?しかし今はスマホ一つで誰だって物知りになれます。素早く関連する情報を見つけ、見つけたものを読んで理解する。そして関連する情報をさらに探す。それの繰り返しで私たちはどんどん物知りになっていきます。「賢くなった」ように思うでしょう。賢人は古今東西例外なく大変な読書家でもあります。文筆家は膨大な量の本を読みます。研究者だって学会や学術雑誌を通して他人の研究から多くを学びます。

しかし、多量の情報を取り入れるだけで賢人になれるわけではないことは、ちょっと考えればわかりますね。しかし情報がここまで氾濫している現代は、情報を取り込むことに多くの時間を費やし、それで「賢くなった」と錯覚する危険と常に背中合せではないでしょうか。スマホ一つで常に、世界中のニュースやビジネス記事、多くの知識人の考えや学術文献までも読めるのですから。

問題は情報の収集にばかり時間を割いてしまい、考える時間が圧倒的に少なくなることです。私自身も常にその危険と隣り合わせでいます。SNSを中心にしてネットの記事をダラダラと読んだり、YouTubeで興味のあるビデオを見ていると、どんどんと関連するものが連なって出てきます。「一日何もしなかったなあ」と反省する日曜日は私にもあります。

あなたの一日を振り返ってみてはどうでしょうか?通勤・通学途上はどうでしたか?歩いているときは、今日の予定や、解決できないでいる問題について考えていましたか?それともスマホで何か読みながら歩いていた?電車の中ではどうでしょうか?自分や仕事のためになる本を、そこから何かを学び取ろうと「考えながら読む」ことをしましたか?それとも誰かが簡潔にまとめた記事を消費するように読んでいましたか?

仕事中はどうでしょうか?あなたの仕事を、「考える仕事」と考えを要しない「こなす作業」に分けてみてください。どのくらいの割合になるでしょうか?どんな職種でも意外と「作業」は多いものです。ここで「作業」にも「考える」ことを取り入れれば大きく違ってきます。単純作業にも、別のもっと効率の良いやり方はないのかとか、その作業を自動化できないか、など。

一人の人間として社会と関わるということは、自分の考えからくる「オリジナルな何か」を持って、他人の役に立つと言うことです。そこに必要なのは、取り込んだ知識を踏み台にしての「考える力」なのです。

考える力を鍛える方法

「考える」とはどういうことでしょうか?辞書によると、 1) 物事について,論理的に筋道を追って答えを出そうとする。思考する。2)  さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする。などとなります。

「考える」ことと「思う」ことや「思いを巡らせる」こととは根本的に違います。

実は頭の中で考えている時は「思いを巡らせている」に他なりません。だから一向に考えがまとまらないのです。頭の中で考えるだけで堂々巡りをしていないでしょうか?考えがいつの間にか最初の目的から脱線していないでしょうか?これらは単に「思いを巡らせている」状態だからなのです。

頭の中のそういったぼんやりしたものを、自分の言葉で人に説明する、あるいは文章に書き出してみる。これによって「考えた」ことになります。声に出したことで、自分の言葉を同時に聞き、相手の反応を読み取ることによって自分の考えを客観的に見えることができます。書き出したものを読み返すことによって、これをより正確に、詳細に論理を組み立てることができます。つまり何が(what)について明確にする作業です。別の言い方をすれば言語化・視覚化し、Critical Thinking(批判的思考)を取り入れることです。

二つ目の「考える」は「何故?(why)」と疑問に思うことです。「どうして?」と思っている時は一生懸命「考えている」状態です。幼かった頃のことを思い出してみましょう。何かにつけて、「何で?」「どうして?」って大人に聞きまくっていませんでしたか?これが考えている状態です。

三つ目はhowと問いかけること、つまりどうすれば目的を達成できるか、どうしたらトラブルを解決できるか、あるいは原因は何なのか、などと考えることです。

つまり、what, why, howのいずれかを問うことで積極的に「考える」ことができるようになります。

学校教育の弊害

勉強はどうでしょうか?「勉強は考えることだ」と言われるかもしれない。しかし受験勉強で勝ち抜くには、記憶力が勝負だというのが残念ながら日本の現実です。進学塾や学校の授業でも、数学や理科の応用問題をパターン化して覚えて解くコツを学んでいる、ということはありませんか?ひどい場合には、数学の公式の意味を理解せずとも、パターンとして覚えてしまえば試験では点数が取れてしまいます。

What, why, howを問うことで積極的に考えることができる、と言いました。しかし受験勉強に集中すると、覚えた公式やパターンの中から的確なものを引き出すこと(which)、神聖ローマ帝国は何年から何年(when)とか、ボーキサイトの産出量で世界第1位の国はどこか(where)という頭の使い方になってしまっているのです。つまりいずれも記憶を引き出す作業であって、考えることではないのです。残念ながら、受験勉強に集中すればするほど、「考える」ことより「覚える」ことに重点を置きがちになります。「考える」ことは「覚える」ことではありません。「暗記」ばかりに時間をとっていると「考える」力はいつまでたっても育ちません。

「考える力」を欠いたまま社会に出てくる大人が増えてきているように見えます。これは社会全体として懸念すべきことです。考える力を欠いた人は、第4次産業革命後の社会では、コンピュータを内蔵したAIエンジンに置き換えられる運命にあることは間違いありませんん(参照:問題解決力 〜 激変するグローバル社会で価値ある個人となるために

私たちは自分の頭の中でものごとを記憶する必要はないのです。インターネットが私たちの脳のメモリーの役割をしてくれています。それよりもはるかに重要なことは、それらデータについて、どうすれば(how)意味のある物事(what)につながるのか、うまくいかない場合に何故(why)なのかを考え、解決することなのです。それがこれからの人間の価値なのです。

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