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【756回】伊坂幸太郎「777」を読んで気になった言葉

はいどうも。
伊坂幸太郎「777」を読んだことは前回書きました。今回は、気になった言葉を書きます。なんてことはない、ただの言葉の収集。コレクション。

言葉を2つ記します。
どちらも、自分の存在に問いかける言葉ですね。

「梅の木が、隣のリンゴの木を気にしてどうするんだよ」
「梅は梅になればいい。リンゴはリンゴになればいい。バラの花と比べてどうする」

(p176)

こちらは、「隣の芝生は青い」に対する反論ですね。「うちはうち、よそはよそ」「僕は僕、あなたはあなた」
授業が上手なA先生に僕は近づきたい。本を開き、授業実践の研修会に出て、毎日授業をして振り返っても、A先生のような授業にはならない。自分はだめだ…。
そんなときは、「A先生はA先生」「僕は僕」
A先生ではないけれど、A先生のような僕。
もしくは、A先生とは異なるけれど、なんとか授業がこなせている僕。
A先生のコピーになれるわけがない。
目指すのはいいが、A先生になろうとしなくていい。僕は僕。その基盤はぶれなくていい。
「隣の芝生は青い」そんな風に見えても、実は隣の人からも、僕の家の芝生は青く見えているかもしれない。考えてもキリがないね。

「観測している時だって、観測していない時だって、猫は可愛いに決まっているよ」

(p178)

合わせて、こちらも、「僕は僕」という基盤づくりに貢献する言葉だ。
「猫は可愛い」とは、みんなが思っている定義ではないだろう。ここでは、「猫は可愛い」という前提で話が進む。
猫は目の前にいようないまいが、可愛いのである。
同じように、僕が誰かの目に見えていようが見えていまいが、僕なのだ。
「僕は◯◯に決まっている」という定義がどうなるか。◯◯に入る言葉は、誰かによって決められるのか。僕自身が作り出すのか。どちらでもいい。
「僕は話を聞くことを大切にする教師に決まっている」
と自分で定義していいし
「あの人は、話をよく聞いてくれる教師だよ」と僕の目の前だろうと、いない場所であろうと、語られてもいい。
見えようが見えましが、僕が僕の定義がある。それは変わらない。
ただ、願わくば、その定義が、「あいつはうっとうしい」のような僕を責める定義になってほしくない。
「◯◯は□□に決まっている」という定義は、僕が決めたい。
「僕は話を聞くことを大切にする教師に決まっている」と定義する。定義は思い込みでいい。
本当は、上手に話を聞けていないと反省する日々だとしても、僕はそうありたいと僕が思い込む。
僕は、まず、自分からたくさん話しかける。子どもたち、同僚、保護者に。話を聞かせてもらう。
気づいたら、逆に、僕に話しかけてくれる人が増えて、話を聞く機会が増えているのかもしれない。
「僕は話を聞くことを大切にする教師に決まっている」と定義が、僕を作り出すかもしれない。

今日は、ここまで。