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【-9回】【読書】トルストイ著、金子幸彦訳「イワンのばか」(岩波少年文庫、1955)

トルストイ著、金子幸彦訳「イワンのばか」(岩波少年文庫、1955)を読み終えた。

トルストイが好きだ…というわりには、まともに読んだことがあるのは、「復活」「光あるうち光の中を歩め」「イワン・イリイチの死」くらい。

岩波少年文庫に入っているということは、きっとわかりやすい話なのだろうと開いてみた。

「ロシア版星新一」と言ったら、トルストイに叱られるだろうか…。

ただし、星新一のように「えーっ」という苦笑いやドッキリがある話ではない。キリスト教をもとに、神とともに生きることが根底にある。

以下感想を一言ずつ。


「イワンのばか」〜いろいろな頼み事に「いいよ」とすぐ答えるイワン。ここまで素直で相手を疑わない人がいるだろうか。しかも、自分がうまく言いたいことを説明できないとまで言う。つまり、イワンは、自分の力を知っているということだ。ルサンチマンのない世界で生きている。好きなところは、悪魔のたくらみで、イワンの国に戦争に来た人たちが、戦う相手がいないので戦争が成立しなかったという部分。喧嘩は相手がいないと成立しない!


「人は何で生きるか」〜自分の運命は誰も教えてくれない。しかし誰の心の中にも愛がある。そして愛を持って、まわりの人間と生きていく。「かわいそう」と思い涙をこぼす、「なんとかしたい」と思い行動する、相手の笑顔を見て笑う、相手の話を聞く。人間はつながって生きる、そこに必要なのは、愛なのだと説く。


「人には多くの土地がいるか」〜欲望を制御できなくなると、欲望に殺される。何事もほどほどに。


「愛のあるところには神もいる」〜一番好きな話。息子を亡くして生きる意味を失った主人公が聖書と出会い、愛を実践していく。罪を許せ、どんな人も許せという。なぜなら、自分が誰よりも罪人だからである。親鸞の悪人正機説と似ているなあ。でも正直、どんな人も許すということは相当な覚悟がいる。キリスト教を信じる人は、死ぬのが恐くないという。なぜなら、死んだあと、終末にイエスが復活したときこそが、真の幸福だから。僕は、しかし、此岸に対して救われたいし、彼岸のことなんて怖い。


「ふたりの老人」〜聖地に行くことが信仰ではない。聖地に行くことができなくても、信仰があれば、魂は聖地に向かっているという。どうしてもヴァチカンに行きたかった。カトリックの総本山だからだ。実際にローマに飛び、ヴァチカンを訪問した。サン・ピエトロ大聖堂だ!ついに聖地に来たぞ!何か心が洗われる感覚だ。この感覚。完全に自己満足である。「ふたりの老人」では一人はエルサレムへ。もう一人は困っている人を助けたためにエルサレムに行くことができなかった。どちらに愛があるかは一目瞭然である。現実、例えば「これから飛行機にのるぞ!」というときに困っている人がいたら助けるだろうか。僕にできるだろうか。


「三人の隠者」〜真実の信仰に、形はない!痛烈である。正しい祈りの形を教えたことは、何のためか。本当に相手のためなのか。自分のためなのか。教えるということを考えさせられる。


あとは「小さい話」「カフカースのとりこ」は読んだだけで、特記すべきことはなし。

それにしても、行ったことのないロシア、しかもロマノフ王朝のロシアを勝手に想像して読んでいた。なんとなく北海道に土地は似てるかな?と。

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