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MMM2009-2018:home(MMM2016)

遅筆の言い訳をするのもあれだけど、MMM2014とMMM2015は、どうも執筆スピードが出なかった。当時ぼくは「MMM中の人」ではなかったから、だろう。

MMM2016は、すらすらと書ける。

「動く」と決めてから、ぼくは「MMM中の人」として、一気に動いた。

まず4月。SFCの新歓のテコ入れ。MMM2016代表の浅野くんにつないでもらって、一般社団法人CYE(Young Entrepreneurs運営委員会)との合同イベントを実施。それまでにはない人数の新入生メンバーを確保することができた。湘南台駅改札前のベンチで浅野くんと一緒にミーティングしたのを覚えている。

もう一つは那珂湊の百華蔵の向かいの「工場跡」を新しい展示場所として使ったこと。MMM2016では、作家さんとの希望によって会場数が足りなくなっていた。しかし学生たちはどうにか実現したいと熱望している…。なんとかしたい…。そういえば、百華蔵の向かいに良い建物があるぞ…。使えないかな…?ということで、情報をかき集め、地元の皆さんを(やや無茶ぶりながら)説得し、実現した。この工場跡はMMM2018でも野村在さんの作品が展示された。

宝塚大学とMMMを繋いで「ヘッドマークのワークショップ」を始めたのも、審査員にMMM2009に出展後、「第36回キヤノン写真新世紀」で優秀賞を受賞し、バリバリ活躍している海老原祥子さんを審査員として誘ったのもこの年。

振り返ればMMM2016はいい年だったのだと思う。作品のクオリティもだけど、作家と学生間や作家間の中が良く、充実していた。那珂湊に長期に渡り滞在する作家も多かった。会期終了後、そのまま那珂湊に定住することになった臼田那智さんと、大賞作家の後藤宙さんが、特に印象に強い。松井ゆめさんや、ろくいちさんとは一緒に木津川アートで展示した。山本大樹さんとは良く飲んだし、木内祐子さんとはその後も環境芸術学会でお世話になっている。みなとハウスに帰って晩酌をしている小山和則さんは渋かった。MMMの常連になった43(石切山)さんも、この年は特に楽しそうだった。

会期終了後は、スタッフといろんなところに行った。クラウドファンディングで応援した守谷のアーカススタジオ、さいたまトリエンナーレ、岡山芸術交流、伊東など…。スタッフと一緒に楽しみ、学び、議論する時間は楽しかった。

MMMだけでなく、ぼく個人としても2016年は充実していた。今、思えば「帰る場所」に帰った一年、と言えるのかもしれない。メディアアーティストという原点に立ち「帰り」、新宿クリエイターズフェスタと木津川アート十分な時間をかけて作品を作った。宝塚大学の仕事も充実していて、役職(IR推進委員長)に就いたり、一般社団法人を共に運営している石川雄仁さんが大学院に入学したことで、宝塚大学がやっと「帰る場所」になった。SFCに「帰れば」小川研の映像サブゼミ、嘉悦に「帰れば」フードゼミの卒制指導が楽しかった。そういえば2016年は自由が丘に「帰って」いた。自由が丘は、それまで住んでいた下北沢と比べて静かで「帰る場所」にふさわしい。喫茶店で思弁的実在論の本をうなりながら数ページずつ読むのは至福の一時であった。

そんな2016年をMMMで表現するためにこの一枚を選んだ。今回の一枚はMMMで初めて同窓会を開いたときのもの。一緒にMMMを始めた緒方くんと、その後受け継いでくれた日高くんと、MMM2011で戦った平田と、那珂湊の岡田さんとの一枚。紛れもなくMMMは、ぼくにとって最も重要な「帰る場所」であった。

そう。この年のぼくは髪を後ろで束ね、無精髭を伸ばしていた。こんな髪型、ぼくを受け入れてくれる「帰る場所」があるからできるんだ。この時のぼくは、「帰る場所」が自分にはあり、みんなに受け入れられることを前提として、生きていたのだと思う。

だけど、そんな状態は長くは続かないし、続くべきでもないのかもしれない。翌年から、ぼくを取り巻く状況は激変した。髪は短く切り、髭は剃り、住む場所も、仕事も大きく変わった。

MMMの状況もまた、大きく変わった。

いや、この瞬間もまた、変わりつつある。

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