本物の信仰とは
はじめに
聖書は、御子であるイエス・キリストを信じるなら、その人は永遠の命を得るのだと教えています。
何という恵みでしょう。
しかし注意してください。
多くのクリスチャンが、「御子を信じる者」に該当していない可能性があります。
これはとても大切なことですから、慎重に聖書から確認してみましょう。
御子を信じる者とは誰か
「御子を信じる者」とは誰でしょう。
イエス・キリストが歴史上の人物であることを信じる人はたくさんいます。
その人たちが全員「御子を信じる者」でしょうか。
もちろん違いますね。
では、イエス・キリストが神の御子であることを信じる人がそうでしょうか。
「それだ!」と答える方もいるかもしれません。
しかし、冷静に考えてみてください。
それなら、悪霊どもも「御子を信じる者」ということになってしまいます。
悪霊どもでさえ、信じている
聖書は、信じるだけなら悪霊どもでさえ行っており、それを信仰だと勘違いする人を、愚かな人と呼んでいます。
この忠告を、私たちは謙遜に受け止める必要があります。
悪霊にはないもの
悪霊と、真の信仰者の違いは何でしょうか。
それは行いです。
私たちに必要なのは、「行い」です。
もっと正確に言えば、「行いを伴う信仰」です。
行いを伴う信仰
今、あなたの目の前に、二つの道があるとします。
その真ん中に御子が立っていて、こう言います。
「左へ行けば命を失い、右へ行けば命を救うであろう」
あなたが御子を信じる者なら、どちらへ行きますか?
もちろん、右の道を行くでしょう。当たり前ですね。
それが「行いを伴う信仰」です。
しかし、この当たり前のことを、私たちは本当にしていたでしょうか。
「命を失う道」と、「命を救う道」について書かれています。
自分のために生きるなら命を失い、主と福音のために命を捨てるなら、命を得る。
この言葉を聞いて、幼子のように、主と福音のために命を捧げる人、それが「御子を信じる者」です。
「まさか、そこまでしなくても命を失うことはあるまい」と考えるなら、それはまだ、御子を信じてはいないのです。
おわりに
初代教会の持っていた本物の信仰が、今や、悪霊どもと同じ、行いの伴わない信仰に変えられてしまいました。
これを今、回復しなければなりません。
行いのない信仰を「信仰」だと思うような、愚かな人になってはいけません。
するとある人は、「人は行いによって救われるのではない!」と叫ぶでしょう。
確かにそうです。
それでも言わなくてはなりません。「行いの伴わない信仰は、その人を救いません」
今、牧師や神学者の叫びではなく、主の声に耳を傾けてください。
救いとは、私たちの内側の癒やしです。
信仰とは、ヘブライ語の「エムナ」を起源とする言葉であり、その意味は「忠実」また「真実」です。
そして死からの解放とは、私たちが永遠の命を確信し、神と隣人のために生きるようになることです。
これらが表に現れたものが、行いです。
私たちに必要なのは、行いに現れるほどの信仰なのです。
行いに現れないなら、その信仰は死んでいます。
その原因は、間違った教えにあります。
本物の信仰とは何か、もう一度聖書から学び直すときが来ています。
教えられた神学を脇に置いて、聖書から直接学んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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