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本物の信仰とは

はじめに

ヨハネの福音書
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

聖書は、御子みこであるイエス・キリストを信じるなら、その人は永遠の命を得るのだと教えています。

何という恵みでしょう。

しかし注意してください。
多くのクリスチャンが、御子みこを信じる者」に該当していない可能性があります。

これはとても大切なことですから、慎重に聖書から確認してみましょう。

御子みこを信じる者とは誰か

御子みこを信じる者」とは誰でしょう。

イエス・キリストが歴史上の人物であることを信じる人はたくさんいます。
その人たちが全員御子みこを信じる者」でしょうか。

もちろん違いますね。

では、イエス・キリストが神の御子みこであることを信じる人がそうでしょうか。

「それだ!」と答える方もいるかもしれません。

しかし、冷静に考えてみてください。
それなら、悪霊どもも御子みこを信じる者」ということになってしまいます。

ルカの福音書
4:33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、
4:34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。

ルカの福音書
8:27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。
8:28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。

悪霊どもでさえ、信じている

聖書は、信じるだけなら悪霊どもでさえ行っており、それを信仰だと勘違いする人を、愚かな人と呼んでいます。

ヤコブの手紙
2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。
2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。

この忠告を、私たちは謙遜に受け止める必要があります。

悪霊にはないもの

悪霊と、真の信仰者の違いは何でしょうか。

それは行いです。

ヤコブの手紙
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

私たちに必要なのは、「行い」です。
もっと正確に言えば、「行いを伴う信仰」です。

行いを伴う信仰

今、あなたの目の前に、二つの道があるとします。
その真ん中に御子みこが立っていて、こう言います。
「左へ行けば命を失い、右へ行けば命を救うであろう

あなたが御子みこを信じる者なら、どちらへ行きますか?

もちろん、右の道を行くでしょう。当たり前ですね。
それが「行いを伴う信仰」です。

しかし、この当たり前のことを、私たちは本当にしていたでしょうか。

マルコの福音書
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

「命を失う道」と、「命を救う道」について書かれています。

自分のために生きるなら命を失い、しゅと福音のために命を捨てるなら、命を得る

この言葉を聞いて、幼子のように、しゅと福音のために命をささげる人、それが御子みこを信じる者」です。

「まさか、そこまでしなくても命を失うことはあるまい」と考えるなら、それはまだ、御子みこを信じてはいないのです。

おわりに

初代教会の持っていた本物の信仰が、今や、悪霊どもと同じ、行いの伴わない信仰に変えられてしまいました。

これを今、回復しなければなりません。
行いのない信仰を「信仰」だと思うような、愚かな人になってはいけません。

するとある人は、「人は行いによって救われるのではない!」と叫ぶでしょう。

確かにそうです。
それでも言わなくてはなりません。「行いの伴わない信仰は、その人を救いません」

今、牧師や神学者の叫びではなく、しゅの声に耳を傾けてください。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

救いとは、私たちの内側の癒やしです。
信仰とは、ヘブライ語の「エムナ」を起源とする言葉であり、その意味は「忠実」また「真実」です。
そして死からの解放とは、私たちが永遠の命を確信し、神と隣人のために生きるようになることです。

これらが表に現れたものが、行いです。
私たちに必要なのは、行いに現れるほどの信仰なのです。

行いに現れないなら、その信仰は死んでいます。
その原因は、間違った教えにあります。

本物の信仰とは何か、もう一度聖書から学び直すときが来ています。
教えられた神学を脇に置いて、聖書から直接学んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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