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主に依り頼む人の幸い
はじめに
聖書は、主に依り頼む人の幸いを繰り返し語っています。
私たちはなかなか主に頼ることのできない存在ですが、正しい教えを知り、失敗から繰り返し学ぶことで、少しずつそれができるようになっていきます。
また、主のほかにどんな人にも頼ってはいけないことも、聖書は繰り返し語っています。
そのことを今日、確かめてみましょう。
心の貧しい者は幸いである
イエス様が宣教を開始されたとき、最初に語った教えは何でしょう。
マタイの福音書
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
直訳すると、「霊が足りていない者は、幸せな者たちだ」そう言っておられるのです。
これは驚きの教えです。
なぜ、霊が足りていない人が幸いで、しかも天国を相続するのでしょうか。
それは、このような人にこそ、助けが与えられるからです。
聖霊の助けは、満ち足りている人には与えられません。
なぜなら、満ち足りている人は、求めることをしないからです。
ですから、自分の心の貧しさに気づいている人は幸いです。
開き直った人や、満足している人よりも、よっぽどいいのです。
人に頼るところから失敗を学ぶ
私たちは、神に頼るよりも、人に頼ったほうが早いように感じてしまうことがあります。
しかし聖書は、そのような失敗を繰り返し私たちに見せ、警告してくれています。
創世記
16:2 サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。
神がアブラムに子を約束されたにもかかわらず、妻のサラは年老いた自分が子を産めるとは信じられず、女奴隷をアブラムに与え、子を産ませました。
そうしてイシュマエルが誕生し、アラビア人の祖となったのです。
やがてそれはイスラム教という一大勢力となり、アブラハムの子孫を苦しめることになりました。
医者に頼ること
ユダ王国にはアサという優れた王がいましたが、最後の最後に、彼は不忠実の死で終わったと聖書は記録しています。
歴代誌 第二
16:12 アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。
16:13 アサは先祖たちと共に眠り、その治世の四十一年に死んだ。
医者を求めることは悪いことなのでしょうか。
当時は、悪いことであったと考えられます。
というのも、当時の医療は、まじないとほとんど変わらなかったからです。
現代はどうでしょう。
極端になる必要はありませんが、主を求めることを差し置いて、医者を求めるなら、主を悲しませることになるでしょう。
医者にかかることは悪いことではありませんが、その前に主を求めない理由があるでしょうか。
牧師や神学者に頼ること
クリスチャンが一番注意しなければならないのが、牧師や神学者に頼ることです。
それは、祭司や律法学者に頼って、メシアを拒絶してしまった人々と同じ道だからです。
マタイの福音書
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
神の民となりたいのなら、必ず、神に従わなければなりません。
聖霊に尋ね、聖書から直接、教えを確かめるのです。
これはイエス様が命じていることでもあります。
マタイの福音書
23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
私たちが聖書のみを根拠とし、神のみに頼るなら、それは私たちの強みになります。聖書から確信できることなら、誰が何と言おうと、たった一人でもその教えを守っていけるからです。
このような人だけが、全世界の人に臨む獣の刻印を拒絶できるのです。
自分に頼ること
最後に気をつけなければならないのは、自分に頼ることです。
調子が良いとき、私たちは自分で義を勝ち取ったかのように感じてしまうときがあります。
あるいはその逆で、「このままでは天国に入るのは無理だ、神の戒めを全然守れていないから」そう考えてしまうときがあります。
その両方ともが、自分の義に頼っている状態です。
エゼキエル書
33:13 わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。
自分の義に頼るなら、必ず死にます。
しかし、主に頼るなら命を得ます。
ペテロの手紙 第一
2:6 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
おわりに
あなたは主に頼っていますか?
頼る必要性を感じていますか?
あなたが新約を受け、心に律法が書き付けられているなら、主に頼らずにはいられないはずです。
そうでないなら、新約を受けてはいません。自分の義に頼っているか、もしくは律法が心に書き付けられていないのです。
本当に新生した人は、罪が嫌いになっており、それから離れようと必死に戦っているはずです。その戦いの中で、自分の霊の乏しさや、力の足りなさを知り、主に頼ることを覚えるのです。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」
ここに真理があります。
自分の霊の乏しさを知っている人だけが、神に求め、その力を得られるのです。
弱いときにこそ強い(第二コリント12:10)とは、このことです。
まずは、牧師や神学者に頼らずに、聖霊の力で聖書を読んでみましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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