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私たちの神とは誰か

はじめに

私は三位一体の神を信じています。

それは、父なる神、子なる神、聖霊が、一つの神であるということです。

三つが一つであるということを、人の頭では理解することができません。理解できると思うなら、それは神の存在を、人の脳に入る程度に矮小わいしょう化しているだけに過ぎません。

さて、ここで質問です。

人として来られる前のイエス様は、一体どんな方で、何をしておられたのでしょうか。

これを正しく知ることで、私たちの目は大きく開かれます。

人として来られる前のイエス様

聖書にはこうあります。

ピリピ人への手紙
2:6 キリストは、神の御姿みすがたであられるのに神としてのあり方を捨てられないとは考えず
2:7 ご自分をむなしくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

人として来られる前のイエス様は、神の御姿みすがたそのものであり、神としてったと書かれています。

皆さんは、このことを正しく理解していたでしょうか。

以前の私は、漠然とですが、旧約聖書の神様を、イエス様とは異なる神だと考え、それを「父なる神」と呼んでいました。

しかし、そうではないのです。

旧約聖書の神様

奴隷であった民をエジプトから救い出し、荒野で試練を与えた方は誰でしょうか。

不自然な肉欲を行っていたソドムやゴモラを滅ぼした方は誰でしょうか。

聖書は次のように語っています。

ユダの手紙
1:5 あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ユダの手紙
1:6 またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。
1:7 その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

旧約聖書に出てくる神は、イエスである。これが、弟子たちの正しい認識です。

ヨハネの福音書
14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

人として来られたイエス・キリスト

神の概念を完全に捉えることはできません。
しかし、こう考えてみてはどうでしょう。

地上に来られる前のイエス様は、神の御姿みすがたそのものでした。
しかし、人として来られたときは、神としての在り方を捨てられたのです。
それは、私たちの苦しみを理解するためであり、私たちを助けるためでした。

ヘブル人への手紙
2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった
2:18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

私たちと同じになったイエス様は、人そのものでした。私たちと同じように、肉体の試練があり、苦しみがあり、死があったのです。

そしてよく見てください。
私たちと同じだからこそ、神を神として崇めたのです。

マタイの福音書
11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます──

神は唯一である

三位一体を正確に理解することはできませんが、少なくとも次の認識を、私たちは持っていなければなりません。

申命記
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である

神は唯一。父、子、聖霊という別々の神がいるという思想は、三神論であって、聖書の教えではありません。

神は唯一です。それは、創造主であり、御霊みたまなる助け主であり、しゅイエス・キリストです。

神様のすごいところは、人として地上に来られても、天においては不在にならないということです。
同じく、助け主として人の中に来られても、やはり天においては不在にならないのです。

この、天で不在とならない神を、イエス様はと呼び、助け主と呼んだのです。

ヨハネの福音書
16:7 ──わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

聖霊とイエス様は、別々の神ではありません。イエス様の一部でもありません。

私たちのうちに住まわれる聖霊は、イエス様そのものなのです。この認識がなければ、本物のクリスチャンではないと聖書は教えます。

コリント人への手紙 第二
13:5 あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。

しゅは、私たちとともにおられるのです。

マタイの福音書
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

認識の回復

今、私たちの認識を回復しなければなりません。

旧約聖書に出てくる神様は、イエス様なのです。もちろん、それは父なる神であり、聖霊でもあります。しかし、その神がイエス様であることを決して忘れてはいけません。

なぜこれが大切なのでしょうか。

それは、旧約時代も、新約時代も、神の教えは同じであり、救いの方法は変わっていないことを悟るためです。

ハバクク書
2:4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる

ローマ人への手紙
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

「信仰」と訳されているこの言葉は、ヘブライ語の「エムナ」であり、その意味は「真実」また「忠実」です。驚くことに、「信じる」という意味はありません。

「信じるだけ」という教えは、聖書本来の教えではないのです。

旧約時代も、新約時代も、私たちは唯一の神への忠実によって生き、不忠実によって滅ぶのです。

おわりに

私たちの神とは誰か、真理を回復できたでしょうか。

私たちの神とは、世の初めから今に至るまで、イエス様なのです。

ゆえに、この方の義が、いつの時代も一貫していることを覚えてください。

ヨハネの手紙 第一
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。

しゅを愛するとは、戒めを忠実に守ることなのです。それは難しいことではありません。しゅのしてくださった愛の行為が、私たちに自発的に戒めを守らせるからです。

テモテへの手紙 第一
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

すべての救いは、真理の回復から始まります。
そのためにも、間違った神学や、教派の教えを捨て、聖書から学んでください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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