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聖書の教える救い

はじめに

「私たちはキリストを信じるだけで、神の裁きから救われる。その救いが取り消されることはない」
これは神学の初歩の初歩です。

聖書の教える救いも、これと同じでしょうか。

慎重に確認してみましょう。

何から救われるのか

まず、私たちが何から救われると聖書が教えているのかを見てみましょう。

マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

「罪から」です。
神学が「裁きからの救い」を教えるのに対し、
聖書は「罪からの救い」を教えます。

ガラテヤ人への手紙
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。

このように、聖書の教える救いとは、この世の支配者サタンのもとで罪を犯していた私たちが、その闇の力から救い出されて、神の支配に入るというものです。

コロサイ人への手紙
1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。

ルカの福音書
1:74 わたしたちを敵の手から救い出し、
1:75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。

これが聖書の教える救いであり、癒やしです。
こうして、私たちは罪を離れ、義に生きるようになるのです。
じつにそのためにキリストは死なれたのだと聖書は教えます。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

なぜ「罪からの救い」を教えないのか

聖書の教える救いは、「罪からの救い」です。
罪から救われた結果、生き方が変わり、私たちは裁きを免れるのです。

ヨハネの福音書
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

大切なのは、「行い」が変わっているかどうかです。
神学のいう「裁きからの救い」は、この結果に過ぎません。

ローマ人への手紙
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

「義とされている」からこそ、神の怒りから救われるのです。

ところで、あなたは本当に義とされていますか?

ヨハネの手紙 第一
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である

義を行っていないなら、「罪からの救い」を受け取っていません。
「罪からの救い」を受け取っていなければ、「裁きからの救い」もありません。

それなのになぜ、神学は「罪からの救い」を教えないのでしょうか。
一体なぜ、義を行わない者でも裁きを免れるかのように教えるのでしょうか。

それは、「信じるだけ」という人間の作り出した教理を握りしめているからです。

「信じるだけ」という教理

覚えてください。
聖書は、「信じるだけ」とは教えてはいません。「信じる者」が救われるのです。
これは大きな違いです。

ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

「信じる者」とは、キリストという医者を信じて、その忠告にどこまでも従う人のことです。

一方「信じるだけ」という教理に、従順はありません。
彼らは次のような聖句を曲解しているのです。

ローマ人への手紙
3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

注意してください。
パウロは「人が義とされるのは律法の行いによるのではない」と言っているのであって、「行いが必要ない」と言っているのではありません。

事実、私たちが罪を離れ、義に生きるようになったのは、律法を行ったからではありません。先ほども確認したように、キリストが十字架で死なれたからです。

この救いを受け取ったかどうかは、行いによってわかります。私たちが義に生きているかどうかでわかるのです。

行いがないなら、その人は救いを受け取っておらず、魂は死んだままであることを覚えてください。

ヤコブの手紙
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
(途中省略)
2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである

神の民となる方法

今日、本当の救いを得てください。
聖書の教える救いとは、「罪からの救い」です。私たちが悪の支配から逃れ、神の支配に移ることなのです。

エペソ人への手紙
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである

これが私たちの戦いです。「誰の支配に入るか」という戦いなのです。

では具体的に、どうやったら神の支配に移ることができるのでしょうか。
しゅは次のように言われました。

出エジプト記
19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

ここで「契約を守るならば」とありますが、その契約とは何でしょう。

申命記
4:13 主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられたそれが十戒である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。

聖書協会共同訳2018

十戒じっかいです。これを守るならば、神の民となる、それが旧約です。

しかし、この古い契約には欠けがありました。

ヘブル人への手紙
8:7 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
8:8 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。
8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。

その欠けとは、民の側に十戒じっかいを守る力がないというものでした。

それでしゅは、新しい契約をお与えになったのです。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

これが新約です。
この契約は、私たちが契約にとどまれるように、十戒じっかいを心の板に書きつけ、守る力を与えようというものです。

つまり、旧約新約、どちらも十戒じっかいを中心とした契約なのです。
このことを、牧師や神学者は無視していないでしょうか。

今、聖書に目を向けてください。
新約とは、決して律法を無効にするものではなく、旧約の欠けを補強し、十戒じっかいを守れるようにするもの、すなわち、義を行えるようにするものだったのです。

新約を受けることで、私たちは「罪からの救い」を得るのです。

このことを信じますか?
信じる人は、誰でもこの約束を受け取れます。神の一方的な恵みによって、価なしに受け取れるのです。
そのことをパウロは「律法の行いによるのではなく、信仰による」と書いているのです。

神の民となることを拒む人々

こんなにもすばらしい神の恵みを、かたくなに拒むクリスチャンが大勢います。

「信じるだけ」
「行いは関係ない」
十戒じっかいは終わった」
「教会は神の民ではない」

そのような神学を、聖書よりも上に置いているからです。

ペテロの手紙 第二
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。

あなたはどうでしょう。
牧師や神学者の言葉を、聖書よりも上に置いていませんか?

自分を低くして、幼子のようになるのは、今です。
「誰の支配に入るか」それが私たちの戦いであることを忘れないでください。

おわりに

「キリストを信じるだけで、神の裁きから救われる。その救いが取り消されることはない」
確かに、これは神学の初歩の初歩です。
けれど、その初歩の初歩から、私たちは間違っていたのです。

今こそ立ち上がりましょう。
もう、そこから立ち直って、聖書の教えに歩む人々が増えています。

ヨハネの手紙 第一
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

このブログを信じる必要はありません。
聖書の教えを信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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